フーコーとクイア理論

ぼくは、まあまあ良いレジュメかな、と思ったのだけど、Amazonのレビューにあるように、これでこの値段はちと高いな。確かに。この程度のレジュメでよければぼくが無料で配布しているぜ〜とか。でも岩波からシリーズもので出ている、という権威に1500円払うのは、卒論・修論書くのには必要なことでしょうな。

フーコーとクイア理論 (ポストモダン・ブックス)

フーコーとクイア理論 (ポストモダン・ブックス)

  • 目次
    • 問題は性

たしかに受容可能な性行動の定義はより広くなったが、一方では多くの古い偏見が残り、新たな危険が絶えず生み出されている。小児性愛の犯人あるいは容疑者であっても、彼らに対する集団ヒステリーは民衆の権力の恐ろしい側面をまざまざと見せつける。フロイトは幼児性欲を暴露したかもしれないが、それは20世紀後半の社会が理性的に論じることのできるものではない。一般に「性犯罪者」への対処をめぐっても難問があるようだ。彼らは病気なのか。もしそうならば治療法は?あるいは「悪人」なのか。いったい何に対して、誰に対して罪を犯しているのか。自然に、神の掟に、社会に対してなのか?

    • フーコーとは
    • クイア理論とは
    • クイアの系譜学
    • 性,真実,言説
    • 性の科学
    • 同性愛の構築
    • 権力と抵抗

「権力関係にはつねに抵抗が存在する。抵抗は権力関係が行使されるまさにその地点で形成されるまさにその地点で形成されるがゆえに、それだけいっそう現実的で効果的なものになる。すなわち、権力への抵抗は他からやってきて存在する必要はなく、権力の同胞であるゆえに容赦なく挫折させられることもない」(『思考集成VI』)

近代社会の「性のモザイク」は流動的な網の目状になっていて、そこでは権力の最大限の活用は禁忌や制約を通してではなく、快楽の増殖を伴って、またそれを通して行なわれたのである。われわれは伝統的な見方にしたがって、権力を個人や団体に作用する否定的な力として見がちだが、管理と生産を同時的に行なう関係として見るフーコーの精緻な分析は、われわれに支配と抵抗という伝統的な政治理論を超えて思考することを要求する。権力関係は単純に転覆や転倒はされ得ないのである。

規範化されない性的、倫理的実践の可能性を探るために、最近ではこれらの後期の研究に注目する批評家もいるが、クイア理論の主要な触媒となるのは、フーコーセクシュアリティの言説構築の包括的なモデルのほうである。

フーコーに戻ったバトラーは、彼の議論のなかに、歴史が文化的な価値観を書き込み、刻印する表面としての身体というメタファーや比喩が何度も繰り返されていることを発見する。これについてバトラーは、身体は意味作用に先行する物質性を持つことを言っているのだと考えるが、彼女にはこれには多くの問題があるとして、身体を意味を産みだす実践として解読しようと試みる。(…)身体は分析を超越するものではなく、セクシュアリティのように系譜学を持つと言えるのではないかと言うのである。

    • クイアな知/クイアな行為
    • 今日はクイアでも,明日は別?