社会学の作法

みんな野村さんを引用したりしないからさあ、ぼくもばかにしてちゃんと読んだことなかったんだけど、この本はすごいと思ったよ。
え、いまさらなの?これ初版は1995年で、改訂版が1999年なのね。ということは初版はぼくが学部生のときには出てたってことだよね。
こういういい本を、なんで誰も勧めないかなあ。いい本を勧めるのって教職員の*1義務だろーがてめーこのやろー、と思うのですけど。
何度も言うけど、こちとら高い金払って教育サービスを購入している消費者なんだからよう。KOの場合金はぜんぶKFC*2方面に流れていくけどさ。

社会学の作法・初級編―社会学的リテラシー構築のためのレッスン

社会学の作法・初級編―社会学的リテラシー構築のためのレッスン

  • 目次
    • はじめに―流儀をこえて
    • 1 社会の研究とはどういうことか
    • 2 読書の作法―何をどう読むか
    • 3 マス・メディアの利用―感受性を高める
    • 4 文献調査の作法―情報探索の初歩
    • 5 レポートの作法―どう書くか
    • 6 パソコンの利用―現代人のメディア・リテラシーとして
    • 7 授業の作法―能動的な受け手として
    • 8 論文試験の作法―誠実な応答をめざして
    • 9 ゼミの作法―討論の主体として
    • 10 社会学リテラシーの構築へ―知識社会学的に
    • 社会学の作法・中級編のために
    • 無作法なあとがき

本書の目標は社会学的生活への準備をすることだ。この場合「社会学的生活」とは社会学的知識に基づいた知的生活のことである。といっても、一般教育科目として「社会学」を履修した理科系学生なら週に90分ほどの社会学的生活であろうし、社会学科の学生でもせいぜい4年程度のことだろう。多くの学生にとってそれは人生のほんのひとこまのエピソードにすぎない。しかしこのわずかの時間で、ことによるとその後の人生そのものを大きく転回させるかもしれない可能性を社会学は秘めている。すなわち、その後の生活が社会学的な認識によって高度に反省的なものになり、さまざまな経験が自己理解と他者理解の触媒として相乗的に生かされるような生活態度を、社会学はそれを学ぶ人に引き起こすのである。

そもそも「作法」はコミュニケーションにかかわっている。それはコミュニケーションのルールであり文法である。社会学は、社会法則に関する何かしらの真理をさすものではなく、社会を主題とするコミュニケーションそのものだから、そこには独特の作法が生まれる。そのコミュニケーションの特徴は、ある理念的な社会空間を想定しておこなわれるところにある。その空間を「市民的公共圏」と呼ぶ。あるいは、もっとわかりやすくいえば「討議の世界」である。


↓は、ようするにblogを書け、ということだ。SFCの今年の新入生向けの「情報」の授業はblogを作らせることらしいけど(サーバの負荷は大丈夫なのだろうか……たぶんそのぶんの金がまた文学部から流れてゆくのだらふ……まあ、まさか外部サービスを使うわけにもいかないだろうからなあ)、ぼくの時代(HTML手書きの時代)からSFCの学生の方がそういう意味では意識的だったし、文章もうまかったと思うよ。

ニュース日誌をつけてみよう。いまどきの大学生は日記などつけないだろうから、こんなことを書くと読み飛ばされてしまいそうだが、自分のことではなくニュースについてだと意外に書けるものである。書いてみて自分の反応を確認するのは楽しい。
(略)
この場合、書くこと自体に意味がある。書くことが自分の思考を自分に知らせてくれる。さらに自分が書いたことに対して自分の「ほんとうの」考えとずれているとの実感があれば、さらにその溝を埋めるためにわたしたちは考え、そして書く。この反省的な循環を自分に引き起こすことだ。

昨今、読書界・思想界に「作法」と名のつく本が増えている。これらの本を一括して論じるのは無理かもしれない。しかし、あえて共通点を探ると次のようになるのではないか。それは、学問総じて知的活動を客観中立な存在と見なしてきた従来の学問観から距離をとり、学問をあくまでも人びとの営みとして自覚するところにある。そのとき「作法」が浮上してくるのだ。とりわけ作文技術に関するものは「書く者」ち「読む者」の社会的関係にかかわるから「作法」がしばしば使われるのである。

前に文章は演技だと述べた。「ありのままの自分」をさらけだすのは知的でもないし正直でもない。無作法なだけである。そして知的誠実性も演じるものである。一方で社会学者がリスクを引き受けながらそれを実演しているのに、他方で学生がそれにのってこなければ、その演劇的世界の深みを理解することは不可能だろう。リスポンスの悪い学生が評価されないのはこのためである。

「問題」を見るためには特別な概念や理論が必要である。常識で見えるものもあるが、見えないものも多い。まして現代社会は複雑なシステムであり、かんたんには見えなくなっている。それゆえ、ものごとを鋭敏に感受するためのセンサーとなる特別な概念や理論が必要なのだ。

*1:「教員」だけじゃなくて、「教職員」ね。

*2:SFCの正式名称。