団地ともおのセクシュアリティ、道徳

hidex77772005-03-28


団地ともお(1) ビッグコミックス

団地ともお(1) ビッグコミックス

団地ともお (2) (ビッグコミックス)

団地ともお (2) (ビッグコミックス)

団地ともお (3) (ビッグコミックス)

団地ともお (3) (ビッグコミックス)

団地ともお (4) (ビッグコミックス)

団地ともお (4) (ビッグコミックス)

小田扉団地ともお』を、ぼくはふつうに楽しんで読んでいる。しかし嫌なところもある。ここでそれらについて書く。

良い点は、登場する女性たちが、(ともおの母を除いて)セクシーである点だ。セクシー度において飛びぬけているのがともおの姉。次点が当然ともおの同級生であるケリ子。このふたりは、セクシーというよりも、もはやセンシュアルで、桁違いであり、他とくらべることができない。しかしこれら以外にも、各話にほとんどセクシーな女性が登場し、惹きつける(コンビニでバイトする大学生に恋する女子生徒や、マージャン好きの青年の恋人など)。

しかし特徴的なのが、これらの女性たちに対する性的な視線を、登場人物たちが(男であれ女であれ)まったく欠いているように見えるところだ。そもそもこの作品に性的な視線が欠けているようにみえる。団地といえば団地妻……というのは古典的で陳腐な連想だが、そもそも舞台となっているこの郊外には、団地・コンビニ・公園・変わった老人・丘(足に障害を持つ女子高生が住んでいるのは丘の上だ)・商店街……というリアルな装置が配備されており、性が「抜け落ちる余地」がない。

ただし、ともおがケリ子に、砂場で遊ぶシーンで、大股開きのままでいることに「安心する」と述べるように、性の存在は否定的にほのめかされる。高校生カップルの性行為や停まっている自動車内での性行為が露骨に描かれてもいる。だが、誰もが――というよりむしろどの欲動も――性を回避しているかのように、描写されている。

嫌なところもあると述べた。それは過度に道徳的な枠組みを、物語の構造に採用している点だ。もちろん、道徳的な教訓を呈示しているわけではないし、読者の道徳的共感によって感動を惹起させようという目論見が埋め込まれているわけでもないだろう。登場人物たち(主に小学生)が、過度に自己欺瞞をめぐって悩む、その姿は現実にはありそうもないがゆえに、たしかに笑える。だがなぜ、笑えるのだろうか?

ランドセルを学校に忘れてくるなどのリアルさと(ぼくもよく忘れたものだ)、フィクションの世界にしか存在しえない空想の力が、『団地ともお』のグルーヴの根幹だと思う。その意味で、紙屋さんの述べるように「そもそも、『団地ともお』は現実世界のリアルとは断絶された、堂々たるファンタジーである」という評はなかば当たっている(つまり、郷愁やリアリティ・だけではない・ギャグマンガ、として評価しなければならない)。「なかば」と述べたのは、読者の《もつ》道徳性の回路を利用(召喚)して、フィクション・としての・道徳性を、ギャグ・として・描いている、というややこしさをもっている作品だからだ。

敷衍すれば、読者は、リアリズムのレベルでは「ヒトはこんなことで悩まない」と知っていながらも、ギャグ・フィクションのレベルでは「ああ、こいつ、こんなことで悩んじゃって、いいやつだなあ、面白いなあ、笑える」、という二重性を体験することになる。たぶん、ぼくが『ともお』に感じている「嫌なところ」は、そこで召喚される回路が道徳性だからだと思う。ギャグマンガが道徳的であってはならないというわけではないし、『ともお』が道徳的だというわけでもない。つまらなければ投げ捨てればよい。『ともお』は面白い、が、それはいわば過度の道徳心を煽るポルノグラフィのようなものであるように思えてならない。