カントの「綜合的統一」

  • 田山令史、1997、「統一」有福・坂部他編『カント事典』弘文堂。

カント事典

カント事典

[(独)Einheit]

  • 【I】分析的統一と綜合的統一

日本語の「一」と同じく、Einheitの語は「統一」「単一性」そして「単位」など、異なる意味を持つ。統一を考えることはまた、これら、異なるEinheitの関連を考えることになる。カントは、超越論的"Einheit"(統一)から、量のカテゴリーの一つである"Einheit"(単一性)を区別するのであるが、同時にその関連が語られる。Einheitの一語で表現されることがらは互いに関係を保ちながら分かたれるのである。ここに超越論的観念論に至る哲学史が描かれる。

まず、区別はこう示される。自己意識である統覚による直観の多様の綜合的統一は、いっさいの認識の客観的条件であり[B 138、154]、論理学全体、超越論哲学をもそこに結びつけるべき最高点、悟性のはたらきそのものである[B 134]。一方、その統覚の分析的統一は、さまざまな表象に統一を与え、概念同士の結合(Verbindung)を考える判断の論理的形式を形作る[B 105]。この判断の機能に基づくのがカテゴリーである。単一性はこのカテゴリーに含まれている[B 131]。多くの表象から一般的概念を取り出すこの分析はしかし、同じ悟性による統一、これを前提している[A 79/B 104、105]。結合なしに分析もない[B 130]。分析的統一は、綜合的統一を前提する。このように、カテゴリーの一項目であるEinheit、単一性は、統一たるEinheitから、統覚の分析的統一、綜合的統一の区別と同時に分離される。

  • 【II】統一と単一性

統一の思想は、哲学とともに始まる。トマス・アクィナスはこの流れの中ほどで、『神学大全』第一部第11問により神の「一(unum)」を問う。ここでunumはEinheitのように、同じ語にとどまりながら「統一」「単一性」「単位」という意味の間を動き、それらの関連と相違を明らかにしていく。議論は、アリストテレス形而上学』と親しく呼応する。

存在するものは分かたれざるもの、統一あるものとして存在する。だから、一が、ものの存在の統一を意味するならぽ、或るものが一であると言うことは、それがあると言うことに何もあらたに付け加えない[第一部第11問第1項、『形而上学』第10巻2章 1054a 10]。ピュタゴラスプラトンは、この「一」、つまり「統一」および「存在」と置き換えることのできる「一」を、不可分の存在のその「実体」と見る。そのうえで「一」を、数の原理としての「単一性」、つまり「単位」と同一視する。これで単位から成るものである数[『形而上学』第10巻1章 1052b 20]が、すべてのものの実体となる。しかし統一としての一は、すべてのものに「?は一である」と言える普遍性によって実体とは言えず、あらゆる分類を超えている[同第1項、『形而上学』第10巻2章 1053b 20]。では、神は一である、とは何を語るのか。神の「一」は「単一性」ではない。単一性は、対象からの抽象であり、ものについての述語に過ぎない。神の「一」は「存在するもの」と置き換えられる「統一」としての「一」である。そして神は世界にこの統一を与える。しかし、この「一」をいうことは分割の否定、だから欠如をいうことであり、神の完全性に反する。神はここで、私たちの理解のあり方においてのみ一なのである[同第3項]。単一性としての一は、ものからの「抽象」、統一たる神の一は、私たちの「理解」のあり方と明言され[modum apprehensionis 第3項反問二への答]、一は「人」と不可分のものとなる。『形而上学』に神を入れ、その一をめぐっての統一と単一性の区別、この区別はカントのもとで、「人」でなく「私」、つまり「自己意識」「統覚」と関係づけられ、一は私と不可分になる。

  • 【III】神の統一と私の統一

『感性界と知性界の形式と原理』(1770)では、万物の実体結合の統一は、あらゆる実体の「一者(uno)」への依存の結果である[§20]。『純粋理性批判』では、一者は影をひそめる。自然(Natur)の可能性は現象を必然的に連結する法則によるが、これは私の意識における必然的統一の条件に従うことになる[『プロレゴーメナ』§36、IV 319]。統一は統覚に担われ、同時に、別れていた「統一」と「単一性」が今度は関連づけられる。

「私が一人」の「一」は、Einheit(numerische Identitaet)、Simplizitaet、Einfachkeitなど言い換えられながら、この一人の意識は、心を一つの対象とする認識ではないことが、こう説かれる。表象を一つの自己意識において(in einem Selbstbewusstsein)統一する(vereinigen)ことで、表象は私の表象となる[B 134]。しかしこの、統覚による全表象の綜合的統一、すなわち意識の統一そのものは、考えることの条件であって直観を欠き、この統一を知ること(kennen)は自己を単一の実体として認識すること(erkennen)ではない[B 157、407-408、420、422]。ところで、私が「一人」であることは、私がずっと「同一」であることで[B 402]、この、自分が「同一」との意識は、現象の綜合が必然的「統一」を持つとの意識である[A 108]。ここで私の「単一性」は、自己意識における表象の「統一」と同義になる。さらに、この統一ある表象とは、一つの対象の認識である[A 102/B 137]。だから、「一つの対象」も認識されないとき、「意識の統一」もない[B 138]。私が全表象の統一を担えば、この統覚による統一、つまり私の一人であることは、対象の単一性に顕れ、また、一つの対象は、この統一によって初めて認識されるのである[B 138]。トマスの神は、その統一がその単一でなく、世界の統一を一つの対象に示さない。対して、超越論的観念論では「私の一」を介して、世界の統一が一つの対象に顕れる。私たちが「一」、"Einheit"を、さまざまの意味に使い分け、その関連を生活のなかで認めていること、このことはカントにとって、その観念論の正しさの証であろう。

【文献略】