うーん...
そういうことをやっちゃうと、かねたさんが、とりあえず・曖昧に・まずは、「言ってみた」<システム/構造>なる区別に、ベタにつきあって逝っちゃうことになると思うんだけどな..... ま、いいけど。

う〜〜〜〜ん、そかなあ。
単純にフーコーは「構造」とか「システム」とかこんな感じでラフに使ってたみたいだよ、ということを「とりあえず」いってみても、さかいさんとかねたさんのやりとりにとって邪魔になるとは思えないんだけど。いや、邪魔だからやめろって言われればやめますが。どうもすみませんでした。どうせ先は長くないし消えます。

さかいさんの出発点は

  1. <システム/構造>区別は棚上げして、
  2. フーコーが言ったことと・ルーマンが言ったことの、比較可能性――対立してるのか・似たような方向を向いているのか・だとしたらその上で異なったコトを観ているのだとすればそれはなにか――を論証してみよう

というところにあるのですよねー。で、「そもそも比較可能性があるのか」というのがかねたさんの問題提起で、システム論者ルーマン構造主義フーコーの言ったことを比較するのは難しいのではないかとかねたさんはおっしゃるわけでしょう。
で、ぼくはルーマンが〈システム論者〉だと思ったことはあまりなく、フーコーが〈構造主義者〉だと思ったこともあまりなく、〈ニーチェ以後という状況下でものを考えた人たち〉という大雑把な読み方しかしてこなかったので、当初のかねたさんの提起にやや驚きを感じたのですが。
さかいさんのおっしゃるように「フーコーが『システム』と言った/念頭においた・かどうか」という観点を、さかいさんの議論に挿入するのは意味がない、ですが、逆に「言ってない/念頭においてない・かどうか」という観点を挿入するのも意味がないですね。そうすると、仮にフーコーがシステム論者で、システム概念にもとづいてものを考え、書いたとしても、比較可能性は担保されないですよね。比較可能性を担保するとすれば、<システム/構造>区別ではなく、彼らが書いたことを納得可能にしうる観点(これもまた、彼らが「言った/念頭に置いた・かどうか」とは関係なく)のうち*、交差する観点ではないですか?それはぼくは〈ニーチェ主義〉だと思うけど。―――というのが、言いたかったことです。
*:

  • フーコーの書いたものを納得して読める観点が{A,C,E,G,……}で、
  • ルーマンの書いたものを納得して読める観点が{A,D,S,L,……}で、

とあるとしたら、Aの観点をさしあたって採用するのが、上記でいう「交差する観点」