ところで、「システム」という言葉を使っているところを示すことは、いかなる言質をとったことになるのでしょうか。

フーコーが「システム概念」を念頭においていたか否かは、私の議論(の妥当性)にまったく関係がないです。

という、さかいさんからかねたさんへの応答に、「念頭においていなかった」といえなくもないですよ、と脚注をつけたことになります。
さらに

しかも、「システム」も「構造」も、論者によって恐ろしく異なる・多用な仕方で使用される言葉なのだから、「システムか、構造か」という問いの立て方には意味がないです。

という脚注に、フーコーの側からすれば「然り」という一票を投じたことになります。システム論者側からすれば――システム概念に付け加えて構造概念を用いる輩がルーマン含めて多いので――そうでもないでしょうが。
下記についても同様です。

ちなみに、ぜんぜん関係ないけどついでに述べておけば、構造主義者で(情報-コミュニケーション-科学的な意味での)「システム」概念(や「複雑性」概念)にちゃんと目配りしていたひとの例としては、ヤーコブソンレヴィ=ストロース、ビッグネームふたつを挙げておくのがよいかと思います(ので挙げておきます)。「構造主義」と「システム論」って、そんなに違うもんなんですかね。私には、「大陸」と「北アメリカ」における同時代的-対応物のように思えますが。レヴィ=ストロースに「構造主義」を教え、アメリカでは情報科学者と共同研究していたヤーコブソンのことを考えてみれば.....どうでしょう?。