本日のゴッゴル日記。

KIN108

中央公論』12月号買った。

まだ目を通してないけど、2記事について。

  • 斎藤環連載:2004年10月19日の東大阪市の事件(20年間引きこもりだった36歳男性が両親を殺害、自殺未遂、自首)を、「新潟監禁」や「佐賀バスジャック」のような「確率的」な問題から、「構造的」な問題への転換の象徴としてとらえている記事。引きこもりの3割以上が30代以上と高齢化し、親世代も高齢化するという状況において、このパターン*1は繰り返されているという。経済的困窮のなかで、必要に迫られたからと言って20年間社会参加の経験のない人間が就労できる可能性は低い。

感想:以上の「構造的」状況・背景分析(というより記述だな)は興味深い。家族の殺害、自殺未遂までは引きこもり状態で、自首・量刑の段階ではじめて社会参加したことになる;引きこもりが反社会的行動に出られない以上、社会の脅威となる犯罪者予備軍だとはいえない、などの前提も共有できる。
しかし、そこから斎藤はなぜか「謎に対する寛容性」というハナシにもっていく。内面の解釈に踏み込む「心理学化」による(共感的理解による)寛容性には懐疑的であれ、と。寛容性は他(者)性の前で「たちすくむ」べきだ、と。要するに理解は不可能だ、ということから出発せよ、と言っているのだが、じゃあ<理解ができる相手に対する寛容/できない相手に対する寛容>と2種類あるのですか?と問いたい。前者はそもそも寛容ではないのではないですか?と。逆にいえば、その前で立ちすくまざるをえないような他者への寛容について語りたいときに、なんで「理解の不可能性」とか「他性」とか「立ちすくむ」とか言わなきゃならないのですか?と。*2
まず1点目として、「他者!謎!すごい!」のであれば、それを前提として可能な社会的配備*3を検討する方向に行かざるを得ず、立ちすくんでないで最初からそれを(そのハナシを)やればよい。
2点目、上記のような「構造的」な背景が明らかになっている以上、いまさらなんで寛容性のハナシを持ち出す必要があるのか。「社会の危険」の経済的人口学的条件がわかっていて、なにがいまさら「謎」なのか、と(引きこもりの「内面」が謎?あほかと。じゃあ引きこもってない奴の内面は謎じゃないのかいと)。在るのは構造的現実だけであり、可能なのは構造介入的な「社会政策」だけだ。
チャリタブルに読めば、「引きこもりは理解できない。精神医学はがんばって*4理解して、彼らを社会に引っ張ってきてくれ」というBAKA言説への対抗言説と読めなくもない。精神医学は、「理解できない」ということを理解するのですよ、と。それはそれで必要な言説だと思うけれど、まあ、『中央公論』の4ページ記事にそこまで(対抗言説として機能することを)期待するのは酷というものだ。

  • 山本一郎切込隊長)記事:日本経済における資産バブルの兆候。下手をすると向こう200年分の利益を先取りして反映された株価のまま推移していたりする。もはや割高だという次元の話ではなく、いくら何でもそれはありえないであろうということが、現在進行形で起きているのがこれらの新興株式市場。ライブドアの決算書を見ると、それまでの会計年次では買収した企業などの営業権を取得したその期に全額償却していたものを、昨年突然五年償却に変更しており、この意図的な変更がない限り昨年のライブドアは赤字決算だったはずである。もうね、モラルハザードとしかいいようがない。孫正義以降の「キャッシュフロー経営」の資金調達のほうがしばらくは有効だろうが、新興企業の経営者の中には合法的とはいえない方法で私的財産作りをしているケースがある。証券監視委員会は迅速に動かない。

感想:おもろい。たとえば「ライブドアが日興系の日本グローバル証券を約40億円で買い取り、外為証拠金取引のシステムを自社開発にしたところ一週間以上にわたって障害を起こして市場に爆笑が広がった」とか。マルクスは「商品語」を解したというが、隊長は「キャッシュフローの笑い」を解す。しかしほりえもんのいかがわしさ同様、この写真はいかがわしいw。

*1:親殺害、自殺未遂、自首

*2:言ってもいいけど1行で済ませろ。

*3:とうぜん「心理学の専門家システム」「臨床家」の配備のような「社会的」施策を含む。

*4:主体のがんばりで。