相田みつをの恐ろしさ

KIN98

尊敬する根本敬画伯のサイト(http://www011.upp.so-net.ne.jp/TOKUSYUMANGA/)から採取。

で、「おっと、こりゃイカン」とばかりに小便をしながら(もしくは大便)、自分なりに「てやんでえ、べらぼうめ」とばかりに反撃に出る。相田みつをが「だれうらむ とにかく身から出たさびだなあ」とホサけば、俺は「おう、誰もうらんじゃいねいよ。でも俺はそのさびを金(ゴールドではなく銭)に変えるために、毎回毎回錬金術をやっているんだよ。作品書いたり、絵描いたり、マンガ本作ったり、その他諸々よオ」と。
相田みつをはこうして、人の弱ったスキや油断にツケ込むのだから、実に危険であります。納得したらオシマイだ。ニール・ヤングも「ヘイヘイ・マイマイ」で訴えている通りに、現実は目に映るところのものより、もっと複雑で不可解なもんだろう。なあ、そうだろう。だからこそ、例えば勝新の名言「無駄の中に宝がある」や、俺がその昔、しおさいの里で拾った「でも、やるんだよ!」って言葉もまさしく「でも、やるんだよ!」っとして多くの(五百〜千人ぐらい)の人々を勇気づけてくれるのである。

ぼくの相田みつをに対するかかわり方について述べておくと、

  • いわゆる「毛筆一筆書き系」の中では、唯一、まともに取り合う気になってもよい存在である
  • むろん有名になり始めたころは心の底からバカにしていたけれど
  • とある知り合いが相田みつをが好きらしいということを知り、その人はとてもいい感じの人だったので、やはり好きになっておいたほうがいいのかもしれない、と思い始めた
  • 実際、大便をしながら読んでみると、うまい事を言っている。
  • というか「毛筆一筆書き系」はみんな「うまい事いいたがり」な人たちなのだが、それゆえに心底軽蔑してかまわない連中だと思うが、相田みつをはやはり別格だなあ(←みつを表現)と思うのであった。
  • それはやはり「縮減力」が段違いだという理由に尽きる。なにも縮減していないのなら一筆書きにする必要はないのだ。
  • とはいえ著作とかひとつも持ってないけど。ブックオフで100円で売ってたりしたら買うかも。

しかし、心的システムの「込み入り」具合が、他人に縮減してもらわないとならない状態というのは、やはり「弱った」状態であるわけで、そういう状態の他でもありうる縮減を、あるひとつの縮減によって納得させられてしまうというのは、危険なことであるにちがいなかろう。
そこで、根本画伯のように、納得しそうになる自分に抗して、みつをに反撃に出てみる、というのは、ある種のトレーニングとなるだろう。社会学的トレーニングといっても良い。
「だれうらむ とにかく身から出たさびだなあ」
に対して、ぼくは

  • 「だれ」をうらんでいるかははっきりしている。
  • 「身」に帰属しうるというだけだ。
  • 「さび」は身「から」出たりはしない。さびがさびを再生産するだけだ。
  • というかそもそも「身から出たさびだなあ」と述べることでみつをは何をしようとしているのか。反省させようとしているのか。パフォーマティヴにはそれもありうるが、パフォーマティヴなのだからそうならないこともありうる。
  • 反省なんかするかヴォケ。

などなどと考えるのだが、そんなことを考えている時点で自分が弱っている証拠だなあ。