社会の社会科学

これを読んで思ったこと:

■ [anthropology] 社会学文化人類学の差異
 とある教授に「社会学文化人類学の違いはどこにあると考えるか?」と尋ねたところ、

社会学は、ある研究対象に対して、まずかちっとした分析枠組みを立て、その中で整合性をはかりながらしらみつぶしのように研究を行っていく。モダンな方法が用いられることが多い。一方、文化人類学では、その分析枠組み自体を問うところからスタートする。ぐるぐる迂回しながら探求してゆく。だから現在はどうしようもなく停滞してしまっている。でもこれは可能性でもある」

と述べていました。別の言い方をすれば

現代社会において、民族誌の意義が多義的であることは、文化人類学を天職とする研究者にとっては福音であるが、初学者や門外漢にとっては、むしろ「非科学的」ステレオタイプが貼られやすいことも事実である。(http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/040302ethnoessenti.html#dokkai

ともいえるでしょう。この文化人類学の「途方のなさ」に嫌気がさして、この前も、とある院生が退院し就職してゆきました。そんな現状です。

たとえば統計学的手法を用いれば、ある調査地域のあるサンプルから全体(母集団)に対してどれだけのことがいえるのか、より科学的に根拠を持った形で示すことが出来る。しかしそれはあらかじめ存在する(統計という)分析枠組みに依拠することでもあり、むしろ(モダンな分析枠組みである)統計自体を問うものとして文化人類学は存在すべきなのではないか、ともいえます。他の例では、社会学や心理学の領域において「質的研究」なるものが最近流行ってますが、質的研究(定性的研究)の方法論を精緻化することは、一方では科学的な信頼性を上げることだけれども、もう一方ではモダンな方法論に従属することでもある。文化人類学者の舵取りは難しいところです。唯一依拠できるのはフィールドワークのみなのだから。

(強調引用者)

上記の質問を「社会学と他の社会科学の違いは?」に換え、「社会学」の代わりに「他の社会科学」を、「文化人類学」を「社会学」に入れ替えると、日頃、社会学専攻のコミュニケーション過程において観察される風景にそっくりだと思いました。

これも参照:http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040712#1089602788

ただ、「社会学」の中にも「伝統」があって、「うまくいった」伝統的社会学領域(冠つき社会学)は、ほぼ例外なく統計的手法を用いた量的調査を方法として取り入れており、「分析枠組みを立て、その中で整合性をはかりながらしらみつぶしのように研究を行っていく」というと聞こえがいいけれども、むしろ伝統的社会学ゲームのルールに抵触しないようにそつなく先行研究に目をくばり、先行研究に用いられた手法を継承/批判的継承することでゲームを維持していく、というメインストリーム系社会学が確実に存在しているので、「そういうものが社会学だ」と思われても仕方がないよなあ、と思います。

それにしてもシクレルとかどこ行っちゃったんでしょうか。まだやってる人いるんでしょうか。

ところで、ぼくは社会学で用いられている統計手法はほとんど例外なく誤謬だと考えており(統計学的に間違っているのではなく、方法論的に間違っている)、そしてそれは「批判するに値する」と思っているので、「統計批判」をワークのひとつにしていこうと考えています。それは「量的調査」が方法論的に間違っているというよりもむしろ、「社会学において用いられている統計手法」を方法として導入する「方法論」が間違っているので、同時に、「質的調査」も「経験的記述」も「同様の方法論」を導入している限りにおいて、批判の対象となる。

ここでいう「批判」はカント的な批判ではなく、たんなる誤謬批判(間違っていることを間違っているということ)なので、社会学そのものではない――そしてぼくのワークそのものでもない――のだけれど、やはり間違っているものは間違っているのだから、間違っているものに対して間違っていると述べるのは社会学者として以前にヒトとしてあたりまえのことじゃあござあせんか。

ではぼくのワーク――ぼくがやりたいこと――とはなにか。

ぼくは社会学がやりたい。社会学の唯一の対象は、社会だと、ぼくは思う。

社会とは、(1)誕生の日付けを持った、(2)意味的な実在、だとぼくは考える。

上野千鶴子が「『セクシュアリティの近代』というとき、問題になっているのは、近代における『セクシュアリティ』ではなく、『セクシュアリティ』という特殊近代的な装置を生み出した近代社会が問題になっているのだ」*1と述べたことがある。「特殊近代的」というアリガチ語彙を使うだけで鼻つまみ者になるセチガライ業界ではありますけれども、だからこそ――というのは、たとえば「家族」は特殊近代的だ、という家族社会学界でも誰も否定したりはしないテーゼが、まったく、いかなる切断ももたらすことなしに、むしろゲームの継続に貢献的に機能しているという現状を鑑みると、ナンダカワケモワカラズ情けなくなってきてしまい――社会自体が特殊近代的、近代自体が特殊近代的であること、から≪社会学の出発をすること≫を成し遂げようとするならば、方法論の彫琢――つまり、「考える」ということ――が必須である、とぼくは考えている。

ここも参照:http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040225#p4

「社会の近代」「近代の近代」あたりがテーマか。

「ではそんな社会学を行なうことによって、おまえは何を遂行しようとしているのか?」だって?

そんな深淵な問いをぼくに投げかけないでください。

*1:記憶から引用