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公共哲学とは何か

山脇直司

発売日 2004/05
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【追記】
*ネタ元:http://d.hatena.ne.jp/editech/20040525

(1)「私」はこの社会でどのようにあることができ、(2)「私」はこの社会でどのようにあるべきか、を考察するのが、公共哲学である。すなわち、公共哲学は、「私」とこの社会を切り結ぶべき規範について考察するものである。

規範というと、どうも堅苦しい、「またオヤジの説教かよ」お思われる方もいるだろう。実は、そうではない。公共哲学は、そのような「説教」の押し付けをしない。むしろ、公共哲学は、私たちがこの社会でできるだけ自由であれるように、そのための約束事を決めるための議論の場を提供するものだと考えることができる。

別の面から言えば、このように言うこともできる。「この社会に、ルールは必要であるのか?」という問いに、どのように答えるべきか、ということである。すなわち、「ルールがない社会が、自由な社会であるのか?」という問いである。

ここで、公共哲学なら、「何のためのルールか、誰のためのルールか?」と、逆に問い返すだろう。

【略】

公共哲学は、まさに「そのルールは何のためにあるべきか」を、あるほうがよい、ないほうがよいという選択も含めて、議論に加わる人たちが決めるのである。すなわち、公共哲学とは、「この社会に住む私たちすべてが、できるだけ自由であれるようなあり方を求めて行う議論の場の提供」なのである。決してそれは、ルール自体の押し付けではない。そのルール自体が、目的を達するために社会の構成員に義務を課すことはあるが、それはそのルール自体の押し付けを意味しない。

【略】

「私」とこの社会とを切り結ぶとは、「私」と「他者」との関係性を必然的に問わざるを得ないのである。

以下、井上達夫氏が「UP」の2004年5月号に書いた記事の締めくくりの言葉。
記事名:法概念の「脱構築」の後に 法の公共的正当性の解明へ

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デリダは「法は脱構築可能だが正義は脱構築不能である」と言ったが、問題はその先にある。正義の脱構築不能な核が何であるかを明示し、法が脱構築可能でるにも拘らず、何が最善の正義構想かをめぐって見解が鋭く分裂する多元的社会において法が公共的な正当性をもつと我々が判断しうるための(あるいはそれを欠くと批判しうるための)規範的な指針を、この脱構築不能な正義の核心によって解明することである。拙著*1はそのような解明の企てであり、この企てへの参与と批判的応答の呼びかけである。

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*1:『法という企て』。bk1のレビューで著者からのメッセージを読むことができる。曰く、「不正な法も法でありうることを承認しつつ、正義と法との内的な関係を明らかにし、法実証主義自然法論との対立を超えた地平において、法の脱物神化を図ること、これが本書のプロジェクトです。」