映画と演劇、戯曲

# hidex7777 『しぇいくすぴあは戯曲=文学として読むと極めてもだーんだと思うのですけどね(笑)。ただ、演劇を観に行く奴って、チケットとるのに並んだりするでしょう。「この土人どもめ!」と内心ののしってしまうのですよ。』

# hidex7777 『KUは今週、「絵本100選」入稿が済んでからになります〜すみませぬ〜』

# Britty 『しないですが>並ぶ アヴィニョン演劇祭は楽しかった。いったらすでにブルック(ベケットの『勝負の終わり』)が完売していてしょぼーん。もう10年近く前の話です。』

# Britty 『ちなみに映画と演劇の差異は身体の現前性および観者と俳優の相互共同、そして監督はなんどでもだめを出せるけど演出家は始まったらみてるだけ、ここが違う。そして戯曲は演劇上演とは決定的に違います。まあこれはKUのほうで。KUはつぎわたしやりますわ。』

にゃるほどねー。ぶりちさはアヴィニョンなんぞにいってらっさるのですね。お嬢様(当時)だ。ベケット観てえ〜
ぼくの嫌いな「演劇人」とは違うのでござるね。学部のときの指導教官が演劇評論家だったので嫌な演劇人が視界に入ってきて困った記憶があるのですよ。
ちなみにマイケル・フリードの前回引用には注釈がついていて、こうです。

厳密には、いかに映画が演劇を逃れてきたのかというのはすばらしい問題である。そして、映画に関する現象学が、極めてやり甲斐のあることだ、などということを除けば、そこに疑う余地はない*1。映画の現象学とは、映画と演劇との間の同一性と差異性に注意を集中させるものだ−−例えば、映画においては、俳優たちは肉体的な存在ではないとか、フィルム自体は、我々からは切り離されて投影されるとか、スクリーンは存在する客体の一種として経験されるのではなく、いわば我々との特殊な物理的関係のうちにある、等々。再びカヴェルのことになるが、彼は会話の中で、ある映画についての説明を行うことに関わっていくような種類の想起に注意を促し、またもっと一般的には、そのような説明を行うことに含まれている諸々の困難な問題の本質へと注意を促していた。

*1:映画の現象学は疑わしい、ということかな?