松浦亜弥『コンサートツアー2003秋あややヒットパレード!』:DVD

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00014NFPC/orangeprose-22

松浦シングルMクリップス(1) についての優れたレヴューはwad氏のものを参照して欲しい。
http://www.ywad.com/movies/906.html

でまあ、驚いたわけです。この人をフォローしていた人が、デビュー後1年ぐらいかけて感じた驚きのエッセンスを30分で体験したということでしょうか。知らない人のために簡単に説明すると、「アイドル」というものを類型化し、個々のタイプを演じるということを意識的にやっている人、ということになる。そのあまりの客観性が、アイドル・サイボーグという渾名の由来らしい。このDVDには6本のクリップが入っているが、そのいずれにおいても松浦亜弥は複数のキャラクターを演じていて、そのパターン(6 x n)がすべて違い、なおかつ自然に見える。音楽は面白いものではないけれども、ビデオ作品として、ピーター・セラーズの主演作やゲイリー・オールドマンの出演作に似た感動があった(少し話をおおげさにしています)。

DVDにはメイキング映像を交えたインタビューが入っており、そこでの松浦亜弥はクリップに出ているどの人とも違う人物である。1つ1つの質問に対する回答が、構文的にも意味論的にも、またファンのためのボーナス映像というコンテキストにおいても、不自然なほど正しく的確である。用意されている文章を読んでいるという感じはしなかったが、仮に用意されていたのだったら、こんどはそれをその場で思いついたかのように語る演技力が凄いと言わざるをえない。

上述のような松浦評にはおおむね同意できる。松浦の場合、PVの「作りこまれ度」の強度が高ければ高いほど、「作られ」ているはずの彼女の受動性が一気に反転し、あたかも高速振動するプラズマのように、エナジーを放射しはじめる。ほとんど、「身体」などという言葉では表現不可能な、エネルギーそのものになってしまう。

「おおむね」と述べたのは、wad氏の、松浦のライブパフォーマンスに対する次のような評価に違和をおぼえたからだ。このDVDを購入したのは、このwad氏の評に抗したものを書いておかなければならないと感じたからだ。

これはいったい何なのだろうと思い、2002年春に行われたコンサートの模様を収録している「松浦亜弥ファーストデート」というDVDも買った。すると画面に現れたのは、歌と踊りがあまりうまくない地味な顔の女の子が、元気いっぱい飛び跳ねている映像だった(その他、全体的に耐えがたいものが続くので、ほとんど見ていない)。この落差は、ファンの間で、松浦亜弥のアイドルとしての神話をいっそう強化する方向に働いているのだろうか。私が思ったのはこんなことである。スーパーマンクリストファー・リーヴ(首を怪我する前)やスパイダーマンのトビー・マガイアや600万ドルの男のリー・メジャーズが、チャリティー会場に現れたとき、人はこれらの役者たちが宙を飛べないからといって失望することはしない。生身のクリストファー・リーヴは、映画の中でのセリフを言ってみせることはできるが、空を飛びながらそれを言うことはない。あれはSFXなのである。それと同じように、松浦亜弥のビデオ・クリップは、その歌も踊りも表情も含めてすべてがSFXであり、落差があればあるほど、それは松浦亜弥(と制作スタッフ)のアーティスティックな才能として認識されることになる。

ここでwad氏は松浦というシミュラクルの強度を高めるためのシミュレーションとして「生の」松浦をとらえている。ここで詳しくは述べないが、おそらくこの評価は転倒している。端的にいえば、松浦はシミュラクルではない。PVにみられる、すなわちアイドル松浦亜弥というシミュラクルと、そのシミュラクルを生成するシミュレーションとしての身体や製作スタッフといった図式は、たんにベンヤミンボードリヤールの逆転図式(「生」のアウラが消滅し、オリジナルとコピーという二元論からシミュラクル一元論(それは<シミュラクル/シミュレーション>という新たな二元論にすぎないのだが)への「逆転」、というポストモダン図式)に引きずられているにすぎない。

そこでぼくはかつてベルクソンをもちいて松浦論を書こうとしたことがあったのだが、結局、ベルクソンが何を言いたいのかがまったくわからないので頓挫してしまいました(ぎゃふん)。