自然法と倫理学
それによって、倫理において制度と自由とが相互に関係づけられていた、そのスタイルも変化することになる
前の章、[五-7]も参照のこと。
「自然法と倫理学」のゴールデンタッグ(の崩壊)のことを謂っているのだと思われます。
『信頼』の索引で、「自然法」か「倫理学」を引くと、同趣旨の議論がヒットする(はず。たぶん)。
『信頼』の索引には「自然法」がなくて、「倫理学の信頼原則」が
- 2,144,159,160
とあります。ちなみに2頁には
信頼の必然性は、正しい振舞の規則を導き出すための、真かつ確実な基盤とみなすこともできる。もし信頼しない場合の選択肢が、混沌と全身を萎縮させる不安だけであるとしたら、人間はその本性に応じて、もちろんなんでも盲目にというのではないけれども、何かを信頼しなければならない、ということが導かれよう。こうして倫理学的あるいは自然法的な格率が、つまり対立物の許容を組み込んだ原理が導出されるが、この原理の実効性については大いに争われている。
とあります。で、160ページで「みずからの対立物をともに許してしまう道徳的な原則」といわれるのが、おそらく「倫理学的あるいは自然法的な格率」なんでしょうね。で、
このような格率の軌範的性格は、すでに内容的ならびに社会的な複雑性が大幅に縮減された状況が予期されうる場合にのみ、そしてその限りにおいて有効である。
と。これは法や組織の領域ではあてはまるかもしれないけれど、
概して、今日の社会的世界は、行為理論としての原則-倫理学を認めるにはあまりに複雑になっている。
と、ここで厨な疑問。「ゴールデンタッグ」はいつ頃有効だったのでしょうか。つまり今日ほど社会的世界が複雑でなかった頃は、いつだったのか。それでルーマンの進化論でいうとそれは機能的分化の前の段階(階層的分化)の段階だったのか、というのが今日の素朴な疑問です。
#ところで酒井さんお父さんの入れ歯、じゃなかった、『信頼』みつかったんですか?
『制度としての基本権』はどうかというと……うわっ、索引が無いクマー!
『手続きを通しての正統化』では……とやってるときりがないので、明日以降にします。今日はこれからハルの翻訳して寝ます。