アクティヴ・アクティヴィズム

むかし別のところで書いた文章をはてなに少しずつ移しています。id:hidex7777:20030603とid:hidex7777:20030606を追加しました(アクティヴィズム関連です)。

ぼくがactすることといえば、「理論」だけだったりしますけどね。

【追記】
なんですか、今日はアクチュアリズム〜アクティヴィズム談義が大流行ですか? まったく。本気かどーだかわかんねー連中が!
文句言いたい奴はいろいろといるが、いちばん権威のある奴(北田さん)にもの申すぞ!<江頭

『情況』3月号では菊地夏野さんが「リブの現在性」という論文の中で、WIBについて見解を求められた上野千鶴子の発言「(自分が街頭行動をしなくなったのは)マスターベーションとしか思えなくなったからですね。アクティヴィズムが街頭行動と結びつくとは考えなくなったから」を引用し、「上野自身が、「街頭に出た人が出ない人よりもえらい」という論理を批判しながら、自分の立場の特権性に気づかない振りをしている」と批判されています。

と北田さんはお書きになっていますが、本当に上野氏が「街頭に出ていない」とお考えですか? たしかに上野氏がデモに参加して路上を歩いている姿は見かけないけれど、それは単に彼女が非常に(というよりも、もう、不条理なまでに)忙しくなったからでしょう。数年前に人口論の学会誌で上野論文(報告をまとめたもの:たしか別の人がまとめていた気がします)が掲載されていたのをみたけれど、これは悲惨でした。「なにも上野さんがこんなことを言わなくても……」といいたくなるようなベーシックなジェンダー論と、すべてが擬似相関である統計グラフで埋められたその報告書は、上野千鶴子というブランドがないと、こんな単純なことすら聞き入れてもらえないんだな、という現実世界の悲惨さを、当時ジェンダー論で修論を準備していたぼくにまざまざと見せ付けてくれました。
そんな忙しい上野氏にも義理人情があるらしく、↓のような原稿料が出るのかどうかも怪しい本で、かなり長い対談を行ったりしているのです。

リブという“革命”―近代の闇をひらく 文学史を読みかえる
加納 実紀代 (編集)

『家父長制と資本制』や『差異の政治学』がいまだに「路上の本」であることは、ぼくは疑っていません(後者の本は、すでに出揃っている論点をまとめただけの本かもしれないけれど、「さあ、これからどういう方向へ向かうべきなのか」と「路頭に」迷ってる連中の『路上の歩き方』として機能しうるものでしょう)。上野氏は、デモには参加しないかもしれないけれど、常に路上に立っていると、多くの連中は−−上野厨と罵られながらも−−感じているはずです。

……てか、まあ、これは北田さんに対する「もの申す」にはなってないか。まあいいや。

つぎ。

ただ、ここで注意しておきたいのは必要悪、というのはとても不公平な仕組みになっていて、それを仕掛ける側、動員する側、煽る側に実はほとんどリスクがなくて、それを仕掛けられる側、動員される側、煽られる側、の方にばかりリスクが集中することです。これを忘れてはいけないとわたしは思うのです。

に全く同意します。

ええっ? 同意しちゃうんですか? だいたい、<煽る側/煽られる側>という「区別」は、「誰の」区別なんですか? たかだか、各参加者の内省(=観測者)にすぎないのではないですか?
で、<煽られる側>(って誰のことだかさっぱりわかりませんが)はどんなリスクをテイクしているのですか? 警察にしょっぴかれるリスクですか?(大笑)


「煽られ」なければいかなるリスクにもさらされないのですか?
たとえば、この世に「運動」なるものが存在していることを知らない人びとがいるとして(いっぱいいますが)、彼/彼女らは<煽られる>側なんですか、<煽る>側なんですか、どちらでもないんですか? そしてどんなリスク配分関係におかれているのでしょうか?


−−−−以上のことが、今日のはてなの状況からは、ぼくはまったく理解できず、この件に関しては触れないほうがよいのだろうか、という疎外感を感じてしまいましたよ。
うん。以上。


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↓これは、パスを受けられないフォワードの連中の責任だ!(中田・談)

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040219#p1