予習シリーズ

今日の予習は

です。図書館へGO!ピーコ!でもこの本はハーバーマス事典として使えると思います。ぼくは個人的にN阪AUG論文を読もうと思ってるぞ。
論点というか、問題点というか、いろいろ読書会の前にあぶりだせておければよいですね。



全4節構成
1.問題の所在
2.方法論の相違
3.現代社会の批判と記述
4.再び方法論の相違について

ざっくりレジュメ化しますよ。数字は、その節の中で何段落目かを指示します。

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一 問題の所在(全5段落)

1:80年代に入って、〈新しい〉保守主義の台頭と、〈新しい〉社会運動の展開というものを考えることができる。
5:ハーバーマスルーマンの社会理論は、〈新しい〉と形容される社会の一連の変化と、どう関係するのだろうか。彼らは、たがいにまったく異なった視点から、現代社会の変化を見ている。

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二 方法論の相違(全37段落)

2:ハーバーマスルーマン両者に共通して言えることは、〈コミュニケーション〉という言葉の多用であろう。だが、両者のコミュニケーションという言葉は、うまくコミュニケーションしていない。ハーバーマスは、コミュニケーション的〈行為〉であることを主張し、ルーマンは、〈システム〉としてのコミュニケーションであることを主張する。

3-10:
ハーバーマス】の〈社会〉は2つの視点から成立する。
《第1》コミュニケーションしている当事者の視点と、
《第2》第三者的に見つめる観察者の視点
コミュニケーション能力の獲得とは、この二つの視点が分節化したうえで相互作用を行うことができるようになることである。そしてこのコミュニケーション能力を前提とした相互作用がなされるところが[生活世界]である。
ところが、観察者の視点の方が一人歩きする。会社、役所、国家など。=相手の手を読んで、自分の手を決める=戦略的行為=近代の官僚制の原理=[システム]

11-19:
ルーマン】にとって、ハーバーマスのいう生活世界はシステムでしかない。
ルーマンのコミュニケーションには、コミュニケートできないという逆説的な含意がある。
ルーマンは、何もかもが、明瞭になる理想的な状態というものを仮定しない。相互作用があるというのは、その相互作用自体がはっきりと確定できない関係であること、しかしそうではあるけれども、このはっきり確定できないということだけは、たがいにはっきりしている、そういう関係があることを意味している。
社会にはさまざまなコミュニケーションがある。=政治、経済、宗教、学問、教育、家族、医療など。
→このように、社会全体の機能が分化していくのが近代化である。
コミュニケーションが、コミュニケーション的〈行為〉であること、つまり言語を媒介にした相互行為である必要はない。

22:ルーマンハーバーマスも、近代において社会の複雑性が増大し、社会全体の機能の分化が起こってきたということでは一致している。
26-31:
ハーバーマス】言葉によるコミュニケーションをつうじてしか、合理的であるかどうかを問うことはできない。しかしこうした合理化をつうじて生活世界を確かめるという過程にはパラドクスが潜んでいる。合理化=単純化は、新たな複雑化を招く。
学問の体系、法の体系といったものが、生活世界から分離し、逆に生活世界を侵食する。「システムが、生活世界を植民地化していく」
「この生活世界の合理化のパラドクス」をこそ問題にしなければならない。
機能分化は、ただ複雑であるからという理由だけでなされてはならない。機能分化には、人間の生活のために合理的である理由が必要なのである。
32-33:
ルーマン】この複雑さと機能分化の進行に合わせて問題が立てられなくてはならない。
相互作用を問題にするにしても、それ自体がすでにきわめて複雑なのだから、言語に縮減するのではなく、もっと根源的な意味作用から論じるべきだ。「意味という概念そのものだけを取り上げる」

35-37:
ハーバーマス】機能の分化は生活世界によって調整されなくてはならない。意味は「日常言語から独立した範疇」としては考えることはできず、ルーマンはこの危険を冒している。
ルーマン】その複雑さを十分に記述していく、そういう理論的作業として、社会理論というものが要請されているのであって、その複雑さの記述を途中で放棄して、言語によるコミュニケーションに還元する方が危険だ!

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三 現代社会の批判と記述(全48段落)

1-5:個々の企業は、ある部門を拡大したり、問題に応じて専門化を進める。組織システムの維持ということは達成される。
=〈システム〉の論理
=当事者にはまったく不可解なまま、これまでの生活全般を変更しなくてはならない。「生活世界へのシステムの植民地化」

6-28:【ハーバーマス
社会福祉国家:
19世紀後半には、政治は、もうすでにその自由主義の主張とは裏腹に露骨に経済に介入していた。
=政治システムが経済システムを客観的にだけ観察して調整していくことにだけ終始するようになってしまった。
⇒かつて近代民主主義の理想として描かれた市民は、一方で消費者としてしか、他方で納税者としてしか、人間像を結ぶことができなくなっている。
14:人間は、人間から離れたシステムの周辺部分に見え隠れするようになってしまった。行為者は、システムの周辺部分、いわば環境にしか現われなくなってしまった。
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環境破壊、財政の逼迫といった問題。
新保守主義者の出現
⇒肥大した政治システムの単純化:専門家による審議会=政治システムが政治システム自体で自己制御していくこと
これはきわめて危険な状態
だが、19c後半〜20c前半にかけて、専門化、特殊化の進行と同時に平等性の要求もあった。
政党や労働運動および、さまざまな形の圧力団体が中間集団となり、政治システムを調整できた。
こういったかつての中間集団はそれ自体が部分システムとなってしまったが、現在、環境保護運動フェミニズム運動があらわれている。
とはいえ新しい運動の可能性を見通すことはできない。

29-34:【ルーマン
ルーマンは、きわめて単純に政治的色分けをすれば、フライヤー、ゲーレン、シェルスキーに連なる保守的な社会理論を土壌にして出てきた論者である。だから、生活世界とシステムとの新たな戦線を、システムの機能分化の徹底によって見えなくするという意味で、新しい保守主義者であると言えるかも知れない。
ハーバーマスの旧態依然性:中間集団概念)
ルーマンにとって問題なのは、ハーバーマスが、コミュニケーションを言語の利用と補完関係にあるという生活世界の構造に縮減してしまうことなのである。
33:ルーマンの場合、社会科学者は、まずは複雑化した現代社会を記述することから始めなくてはならない。それなしに、安易にどこかに還元したり、何か普遍的、理想的な構造を前提にして(いわば論点を先取して)、現在を歪んだ状況だと嘆くことこそ危険だと言うのである。社会は複雑で、その部分も複雑で、ただ観察することによってだけ、この複雑さを記述していき、そこにあるはずの自己組織化のメカニズムを見出すことが重要だと言うのである。

41:たしかに【ハーバーマス】も、財政であれば財政で、まずその問題を精密に観察することは否定しないであろう。しかし、このシステムの複雑さという問題は、つねに、日常の生活実践の問題、つまりコミュニケーション的行為の問題として考えなくてはならない。というのも、財政という問題自体、またそのための知識は、日常の生活実践から、すなわち生活世界から分離しては考えることができないからである。これに対して、【ルーマン】の場合、こうした複雑さを、一度に還元してしまうコミュニケーション的行為と言えども、それ自体がシステムであるから複雑なものであり、そこへ還元してしまう正当な論拠を見出すことができない。マルクスの政治経済学批判のアナロジーとして、システムの複雑性の問題を、認識批判の問題にすり替えてしまうことを、ルーマンは拒絶する。つまり社会全体の複雑性を、かつて経済の機能にだけ縮減しようとしたように、単純な相互作用の特殊な機能、すなわち言語によるコミュニケーションにだけ縮減してしまうことが、危険そのものに見えるのである。

43:〈払う〉という行為が連鎖を形成することで、システムが形成されていく。その意味で貨幣がコミュニケーションのコードとなって社会システムのひとつの部分システムである経済システムを作っている。
44:【ハーバーマス】にとって重要なのは、〈払う〉という行為が、どういう意味を持っているかということである。〈払う〉というのは道具的行為でしかなくて、社会的な意味がない。
47:〈払う〉という道具的な行為と同時に、これの意味を決める社会的文脈、つまりコミュニケーション的行為、言葉を交わすことで理解し合うコミュニケーションというのがあるというのが、ハーバーマスの基本的な枠組みである。

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四 再び方法論の相違について(全14段落)

5:ハーバーマスが考えているコミュニケーション的行為や討議もシステムなのである。だから〈新しい社会運動〉というように、いわゆる草の根民主主義と呼ばれる対面的な相互作用を重視し、生活世界を守ることを唱えたとしても、それは、相互作用をつうじて、あるテーマが立てられて、それをめぐって意見が、次々出されて連鎖してシステムが構成されているということでしかない。ここからは、このシステムが、どうして他のシステムに対して優位になれるのかを言うことができない。だから言葉による相互行為や討議から新たな社会規範が抽出されてくるということには、きわめて懐疑的にならざるをえない。
6:環境の問題というのは、社会システム全体の環境の問題なのである。だから環境というきわめて複雑な問題が、いったいどのようにして単一的なテーマとなるのかということが問題になる。社会システムの一部分システム、ハーバーマスの言うコミュニケーション的行為内でテーマ化することが、社会システム全体を代表できるはずがないのである。
8:生活世界の特別さは、どうやって示せるのだろうか。

以下略