論文メディアとオリジナリティの神話

[id:gyodaikt:20040129#p1]さんの「儀礼的関心」

この儀礼的・儀式的な関心が「論文」が成立するための必須手続きとされ、かくして著者・作品(論文)の「オリジナリティ」の神話がどの業界にもまして再生産されつづけているのが、ガクシャ共同体なのかもしれない。しかも形式的には「リンクフリー」の体裁をとっているから、儀礼的な関心とマジなリファーを表面的に識別することは不可能で、被引用数ランクによる論文評価などという妄想的な制度が信憑されてしまったりする。「オリジナリティ」はかくも皮相な言説回路のなかで創造されつづけているわけです。

に対して[id:Ririka:20040204#p2]さんのコメントがあり,さらに[id:gyodaikt:20040204#p1]というレスポンスがあったのだけど([id:churos:20040204#p3]さん参照),ぼくは1月20日の時点で以下のようなことを戯画化して書いていたのだ.わははは,勝った(←神話化).

学問はそもそもはじめからコミュニズムでやってきたのだ.学的システムの機能は〈真〉の蓄積,あるいは←に抵抗があるなら,〈学的蓄積〉の蓄積にある.そこにかかわる人の業績とか(つまり「誰が」それを考えたのかとか,首尾よい文献表の配置とか),そういったことは学的システムの作動の「目的合理性」には適っているのかもしれないけれど,学的システムにとっては「環境」問題に過ぎない.
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ぼくは実はもうすでに現時点で,この手のことは「目的合理性」にすら適っていないと思っているのだが,そこでぼくがイメージするのはインターネットに脳を直接接続して学問を営む光景だ.インターネットに接続された公共空間には,誰もがフリーで使用できる学的蓄積がデータベース化してある.接続者はそれを自由にダウンロードしていいんだけど,いつだってそこにあるわけだから手元におく必要はないだろう(同様のことはすでに映画批評の分野などで起こっている.某評論家は手元の資料をすべて捨てたらしい).
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この世界では,思考に著作権もなければ,「誰それの業績」という観念もない.あるのは学的蓄積と学問の進歩だけだ.