いやあ,昨日のパーティ@鎌倉にあるドイツ語の先生のお宅は楽しかったですね.豆のスープ美味しかった!それにしてもみんな酒持ってきすぎ!しかもほとんど空けちゃってんじゃん!

それにくらべて,今日の自分の発表@Hゼミは,散々な結果に終わった.べつに不評だったわけでもなければ酷評されたわけでもない.たんに不発だったのだ.いいかえれば,オーディエンスにインパクトを与えることができなかった.スルーされたというか.これはぼくにとっては絶大なショックである.なにしろこの論文の準備にぼくは30年間をかけたのだから.自分の30年間をすべて詰め込み,詰め込みすぎて失笑をかうぐらいの情報をプレゼンテーションしたつもりだった.
しかし不発だった.だれも「なるほど」とか「そういうことだったのか」とか「すげえ」とか「おまえキチガイだな」とか「これ社会学じゃないよ」とか,そういうことを言ってくれなかった.ここのところわかりにくいからもう少し詳しく書き直したほうがいいんじゃない,とか,ここの議論がつながってないんじゃないか,とか,この事例はあんまり適切じゃない,とか,?マークの後ろは1マス空けろ,とか,そういうことは言ってもらえた.でも,誰一人としてぼくの思考内容に魅力を感じたオーディエンスはいなかった.
これはけっこう,きっついハナシだ.たぶん,人生に訪れる何回かの転機のうちのひとつなんだと思う.ぼくはかなり危険な状態に陥ると思う.学問というヤクザな世界で生きていくにあたって,こんなことはみんな通過済みのこと? そんなことはないでしょう.これはほら,宮台真司がダブルコンティンジェンシーの例で挙げた,矢が的にあたるか,あたったのを褒められるかのどちらに自尊心をおくか,という例の,あれ.でいうと,ぼくは「狙った的に矢が当たる」ことを自尊心の糧にしている,はずなのだ.的に当たらなかった.今回は.
今回のがキツいのは,当たるはずなのに当たらなかったからだ.だって30年かけて出した答えが,これ,なんだもの.もちろん完璧なものを出したわけじゃない.不完全なまま,料理中の料理をさらけ出した.もうほとんど,切腹してみせて内臓までみせちゃったようなものだ.これでだめならもうどうしようもないだろ.
ああ,人間が失敗するというのはこういうことをいうのだなあ.人生に成功も失敗もない,生きるか死ぬかだけだ,と菊地さんは言った.そうか.ぼくはまだ生きている.でも,生きていることに失敗してしまうということも,あるのだなあ.ということだ.