誰かが言わなきゃならないのになぜか誰も言わないこと

先日野中さんとこでコメントしたことにかかわるのだけど,「綿矢りさ萌え」には問題があり,そのせいでぼくは綿矢氏の作品の批評にとりかかることができないでいる(というのは嘘で,読む暇がないから).
まず,テクストの括弧入れのジェンダー差の問題.
ブルデューの有名な調査だが,「りんごの絵」と「夕焼けの絵」を被験者に鑑賞してもらい,ポイントを付けてもらう.どちらの絵を「美しい」と評価するかの差が,階層変数(ブルデューだと「階級」なのかな?)によって統計的に有意差が出た.ロウワー・クラスでは「夕焼けの絵」を美しいと感じ(なぜなら「夕焼け」は美しいからだ!),アッパー・クラスでは「りんごの絵」を美しいと感じたのだ.後者では絵を,その内容(何が描かれているか)ではなくその形式(どのように描かれているか,アプローチのしかた,現前性において視覚に現れる二次元の空間そのもの)において把握することが成し遂げられているのだ.つまり,芸術を芸術として理解する能力,内容を「括弧入れ」して形式において鑑賞する能力は,階級の高さを要因としている.カントは『判断力批判』でこの能力を「美の無関心性」といったのだけれど,ブルデューはこの能力を社会化あるいは歴史化したといえる(『ディスタンクシオン』のサブタイトルは『社会的判断力批判』).
階層差によって括弧入れ能力に差が出るということは,階層の高さが,括弧入れにかかる負担免除の機能を,なんらかのやりかたで果たしているということだろう(ブルデューはそれをハビトゥスとよぶ).
ここで問題になるのは,「括弧入れ能力のジェンダー差」ではない.作家のジェンダー差によって,テクストが強いる括弧入れ負担が免除される,という事態である.問題は錯綜している.ぼくのこの日記へgoogle:綿谷りさ+クリトリスで訪問してくる数はとても多い(「綿谷」は変換ミスですが).検索結果を探ればよくわかることだが,『インストール』で描写されるチャット・シーンに過剰に反応する男性読者がとても多いことがよくわかる.彼らは村上龍の作品を読んだときに性的な興奮をおぼえないだろうか?そんなことはないだろう.しかしそのときテクスト(の環境)は括弧入れされているのだ.『トパーズ』や『ブルー』のセックスシーンで勃起しているときに龍ちゃんの顔が浮かんできたらそれこそ萎えてしまう.
友人のMO君が師事している加藤典洋『テクストから遠く離れて』のテーマは,テクストに作家性を取り戻すとかなんとか,そんなことらしいが(こんどちゃんと読んでみます),綿矢りさにおいて,作家は(彼女の意図をまったく無視して)あらかじめ「取り戻されて」いる.いいかえれば,(綿矢氏がどう望んでいるかということは知りえないし,無関係のことだが)女の,しかも子供の書いたものであれば,テクストと作家を切り離す必要はない,という枠組みが作用している.いくら加藤氏が「ポスト・モダンな読み」で作家性をテクストに取り戻そうと試みて,それが画期的なことであるとしても,そしてそれが男性作家に適用してみるのは良いことだとしても,綿矢氏の作品があらかじめその「テクスト性」を剥奪されていることは問題であると言わなければならない.わかりきったことだ.
つぎに,コメントでも書いたけれど,山田詠美江國香織ではこのような事態は発生しない.つまり,ここで重要なのが「萌え要素」である(また,「女」は一枚岩ではないというスピヴァク的問題もある).文藝賞の受賞自体,綿矢氏がもつ「萌え要素」を前提としていたことはありえないことではない.かといって,作家として綿矢りさの固有名が登記されたのだとしたら,最低限その「テクスト性」は尊重されてしかるべきだ.しかしそのテクストへ「萌え」が向けられているわけではない.
以上のようなことは,批評にあたっては勝手に無視してよい環境的な問題にすぎないだろうか?しかし,この程度のことをなぜ誰も言わないのだろうか?あまりにも当たり前のことだからだろうか?旧態依然とした近代的な観点に過ぎないからだろうか?ポスト・モダンな「萌え」こそを喜ばしく受け入れるべきだとでも言うのだろうか?
しかし,繰り返すが,この「剥奪」は一度目の「括弧入れ」の負担の「後に」来なければならない.ぼくが問題としているのは,この一度目の括弧入れがいまだ行われない,あるいは剥奪を前提とした言い訳としての括弧入れしか行われていないという事態である.もし綿矢氏本人がこの剥奪に抵抗を見せないのだとしたら,ぼくは二度と氏の著作に興味をひかれることはないであろう.