そんで,昨日はゼミのあとにMO君たちと食事してたんだけど,MO君が「学問は一人でやるもんだ」って言ってて,その例として数学専攻のゼミのハナシをしていた.ゼミ生が指導教官に「こんな発表をしたいんですけど」とレジュメを見せたところ,「ここのところは伏せておきなさい」と指導されたそうな.つまり肝心のところは公式発表の前には人に知られちゃまずいぜ,ってことらしい.だから数学専攻のゼミって出席しても勉強にならないんだって.
ぼくはこの点に関してはMO君の見解は完全に間違っていると思う.たしかに自分のやりたい仕事を完璧に導いてくれる指導者なんているわけないし,この学校にいればいいとかこのゼミにいればいいとかこういうサークルをオーガナイズすればいいとか,そういった充分条件はありえない.だから「一人で学問」なんだけど,それは現時点ではやむをえないからそうしているというだけのことであって,数学科の例は,アメリカにありがちな学問的業績を生産すると同時に特許(パテント)も取っちゃう,みたいなハナシで,転倒していると思う.
学問はそもそもはじめからコミュニズムでやってきたのだ.学的システムの機能は〈真〉の蓄積,あるいは←に抵抗があるなら,〈学的蓄積〉の蓄積にある.そこにかかわる人の業績とか(つまり「誰が」それを考えたのかとか,首尾よい文献表の配置とか),そういったことは学的システムの作動の「目的合理性」には適っているのかもしれないけれど,学的システムにとっては「環境」問題に過ぎない.
ぼくは実はもうすでに現時点で,この手のことは「目的合理性」にすら適っていないと思っているのだが,そこでぼくがイメージするのはインターネットに脳を直接接続して学問を営む光景だ.インターネットに接続された公共空間には,誰もがフリーで使用できる学的蓄積がデータベース化してある.接続者はそれを自由にダウンロードしていいんだけど,いつだってそこにあるわけだから手元におく必要はないだろう(同様のことはすでに映画批評の分野などで起こっている.某評論家は手元の資料をすべて捨てたらしい).接続者は,「この問題はあいつに解かせたほうが手っ取り早い」とおもえば,「問題」と「データ」をオブジェクト化して,「あいつ」に転送する.もちろんアップロード量とダウンロード量のキャパシティにはそれぞれ違いがあるから,WinMXとかWinnyのようなファイル共有ソフトみたいに,キューにスタックされていく.それで時間がかかるようであれば,IMで交渉するか(「これは大事な問題だから急ぎで頼む」とか),ナンバーツーのところに転送してやればよい.当然,アップされてきた(返答された)オブジェクトは公共空間にどんどんデータベース化されていく.問いを発した接続者がそのオブジェクトを整理したり「関連付け」したりするとなお良いだろう.この世界では,思考に著作権もなければ,「誰それの業績」という観念もない.あるのは学的蓄積と学問の進歩だけだ.
先日の記事にあったように,脳とコンピュータの直接接続はすでに現実化している.あとはインターネットへの接続と,その高速化だけが問題だ.これほど学的システムの「目的合理性」に適ったシステム(後者の「システム」は「学的システム」の環境に位置する)はないと思うのだけれど,様々な利害関係(利権)がその発達を阻害するだろうと思う.「大学がその利権を握っているんだろう」という意見もあるだろう.しかしぼくは大学こそが利権から自由になれる(今はどうであれ)制度的な基盤を作れるのではないかという希望を持っているのだ.接続者への報酬の確保とか.