メモ

むしろ,個人的には,ルーマンに代表される「自己準拠」に着日した社会理論,言い換えれば自身の再帰的な性格を自覚した社会理論の方に強い違和感を覚える.違和感というよりは,むしろ息苦しさであろう.一言で言えば,「相対主義的な言説ほど,抑圧的な言説はない」という感覚である.
自身も他者の批判によって相対化されるのだと自身の理論の内部に書き込んでみせることで,かえって他者による批判を封じ込め,自身を批判されえないものとして提示しようとするスタイルは,考え方によっては非常に倣慢なスタイルである.批判されえないものとして提示することは構わないけれども,そのことで他者との応答の可能性を貧しくし,理論そのものが(仮に正しいにしても)無内容になってしまうことだけは避けたい.そう思うから,あえて自らの手で自身の客観性,真理性を否定して見せてみるスタイルの論文だけは書きたくないと思っている.

これはルーマンの、理論体系=観察者は自己をも観察するのであり、他のありうる観察者をも観察するのであり、したがって観察するものは他の観察にさらされるのでもなければならない、というテーゼをふまえた「感覚」なのだと思う。

しかしなぜ自身の言説が他者の観察によって相対化されると自覚していると、「自身を批判されえないものとして提示」したことになるのだろうか。上のような言明を行うものは、そのことを立証しなければならない。

しかし立証するまでもなく、すでに反駁されている。ぼくは自身の観察が他者の観察にさらされることをよく知っているにもかかわらずこのように観察を行っているし、そのことになんの躊躇も感じていない。もし数土が正しければ、ぼくのこの言明さえありえない。

「自身の言説が他者の観察によって相対化されると自覚」していると、「自身を批判されえないものとして提示」したことになるという「感覚」を持つものはどのような人格類型に属するのか、という問題関心に基づいた観察も可能である。しかしそのような観察が批判不可能であると考えるものは誰もいない。

さてどのような立証が可能なのだろうか。