ちょーえつろんてき寂しさ

 君たちはよく「君」について歌うよね。「君がいなくなって寂しい」とかなんとか。その「君」ってのは誰なんだい、いったい。ぼくの会ったことのない人かい。そうかい。ぼくはそういった「君」には一度も会ったことがないし、この先も会うことなんかないんだろう。そういう意味でぼくは一人ぼっちだ。いや、ぼくはぼくにだってこの先会うことがあるのかどうかわからない。一人かどうかさえわからないんだ。
 クリスマスイブに渋谷のHMVにいったら、サンボマスターのPOPに、「もし君が夜寂しさを感じたことがあるなら、それがROCKだ」みたいなことが書かれていた。綿矢りさの『蹴りたい背中』は「さびしさは鳴る」で書き出されるらしいね。読んだことないけどさ。
 そういうのがわからないというんじゃないんだ。ぼくも寂しさを感じたことはある。ここでは「経験的寂しさ」とでもよんでおこう。そんなとき、同じように寂しさを感じてる奴がいたら共感なんかしちゃうよね。寂しそうな奴を見かけたら力になってやったりさ。もちろん「寂しそうなやつ」なんてのは事後的な記述にすぎなくて、自分の寂しさを投影して「寂しそう」に見えているだけなんだけどね。でもだいたいそいつらは寂しいみたいなんだ。
 でも柄谷行人漱石論にならえば、「経験的寂しさ」は、対象が与えられれば解消する。「君に会えれば」ね。しかし経験的な寂しさが解消されても、「ちょうえつろんてき寂しさ」は残る。このちょうえつろんてきなやつにやられちまうと、もう、共感なんてできなくなっちまう。だれも「自分と同じように寂しそう」になんて見えない。いつだってぼくらはひとりなんだ。
 この「ちょうえつろんてきなやつ」と付き合いながら、今夜もやり過ごす。たぶんあしたも。ぼくがなんにもしゃべらない奴だと思ったら、そのときぼくはたぶんそいつをやり過ごそうとしているんだろう。君はぼくに共感できないし、ぼくも君に共感できない。
 これは一般化と単独性というテーマにかかわるんだけど、それはまあ、おいといて。でも単独性は現前しないはずなんだがなあ。おかしいなあ。たぶん単独性はそれ自体で現前しないで、なにか、物質的なものを現前の空間に送り込んでくるのに違いない。
 「まちがいない」