『制度としての基本権』(1965)
- まずそもそも、この本は何が面白いのか?
以下は読書感想文。
タイトル:【68年・フーコー・ルーマン】
ルーマンの『制度としての基本権』は1965年、ほとんど自費出版のような体裁で出版された。誰の眼にもとまることなく。本書以前には、パーソンズの元への留学体験と、『社会学的啓蒙』に所収されることになる諸論文があった。ルーマンが著名な社会学者になるのは、1968年の講義以降始まるハーバーマスとの「論争」においてであった。
『制度としての基本権』の特徴は、「ルーマンのくせに熱い」書物だという点だ。馬場本の「まえがき」にあるようなcoolな社会学者を、われわれはノーマル・ルーマンとしてとらえている。そしてほとんどの著作において、そのパブリック・イメージは貫徹されている。本書の熱気は、その意味で異常な印象を与える。
本書の主張は、法ドグマーティクの法源思想すなわち基本権があらゆる法の頂点にあり、いかなる干渉も受けることはない(あったら残念だ)という思想、基本権の本質はその本質の中にあるという思想への社会学的観点からの批判をモチーフにしたものだ。基本権は、社会の脱分化に抗して国家の領域侵犯を制御する機能を持つ。本質の本質などというものは知りえない。ドグマーティクは基本権を絶対的な超越的根拠がなければならない価値としてとらえるが、その根拠はシステムの機能能力に見出すことができる。立法措置は完全権に対する制限などではなく、基本権にとっての負荷分散機能を果たしている。云々。
これらの分析はたしかにcoolだ。だが、こういった「社会学的観点」をとること、そして社会学的パースペクティヴと法学がコンタクトすることをベタに呼びかけるルーマンは、情熱的だ。
機能は潜在的であることによって機能的であるか?いやそんなことはない、時間のフィクション性がバレても誰も時計を投げ捨てやしない。むしろその機能を意識にもたらすことによって、脱分化の危険性についてのコンセンサスを得たほうがよっぽど有益だ。分化していない東側をみよ。貧しいではないか。「価値」の平面においては東側と理性的な討議は不可能だ。だが機能分化の理論はそのような討議を可能にする基礎を提供する。
つまり、ルーマン曰く:「いいかい?法学者さん、東側さん?よく聞いて。――俺様のように考えろ!」
ルーマンよ、なぜそんなに熱いのか。
ルーマンは、1927年にリューネブルクに生まれ、1998年、謎の細菌による謎の病死を遂げた。
■
同時代人のフーコーは、1926年にポワチエで生まれ、1984年敗血症で死ぬ。
『精神疾患と心理学』『狂気の歴史』『レーモン・ルーセル』『言葉と物』などの主要著作、「外の思考」のようなエセーを経て、1969年『知の考古学』を出版する。
『知の考古学』の前提は、歴史学における認識論的変動である。曰く、「連続」から「切断」へ。「ドキュマン」から「モニュマン」へ。同一から差異へ。連続的な歴史は主体の創設機能の不可分な相関物である。それは特権的な隠れ家、自己の住居である。差異への嫌悪はあたかも他者を考えるのをおそれていたかのごとくである。本書の企てにもそれらの危険は刻み込まれてしまうため、本書はびっこを引くようになった。それはあらかじめ隠さずに、自己の同一性を拒否する。私は、これでもなければ、それでもない、ということになる。云々。
これらの「諸テーゼ」は、ルーマンの分析と比べると、やや熱い。だがこの程度ならば慣れっこだ。うんざりさせられはするけれども。本書序論は次の一節でしめくくられる。
おそらく、私だけでなく、ほかにも顔を持たぬために書いている人がいるはずである。私が何者であるかをおたずね下さるな、同一の状態にとどまれなどとは言って下さるな。
フーコー曰く:「俺様を主体化するな!差異だ!外部だ!同一性はクソだ!」
ごもっともではあるが、フーコーさんのいう同一性のフィクション性がバレたからといって、その機能的代替物がない限り、誰もそれを投げ捨てようとはしないだろう。
■
この連中の「熱さ」「暑苦しさ」を、時代状況に還元することはたやすい。しかし68年状況にとって彼らは決して「連続」した存在ではない。
ルーマンにとって68年革命は、19世紀的な請求権という形式をとっている(馬場靖雄「ルーマンの68年」)。これは『基本権』において批判されるドグマーティク思想の、憂慮すべき観念世界の形式である。それが憂慮されるべきなのは、「その都度原告と被告という形で代表せしめられる二つの対立しあう利害領域だけしか存在しないという想定」が現実の歪曲であるからだ。かくして自由概念の過剰な抽象化が起こり、市民の自由権は裁判官の自由権へと転換する。
フーコーの「構造主義」は左翼からは現状肯定の理論として批判を受ける。後年『性の歴史』がゲイリベレーションのバイブルとなるとは思いもよらなかったことであった(左翼にとっては)。
彼らを駆動した個別的な動機づけは、ある程度明確である。ルーマンは、機能分析とシステム理論の接合を何とかして図ろうと苦慮し、あるいは因果的説明を機能的説明のひとつのバリエーションに位置づけることによって、社会学のアイデンティティを機能的説明に置くことを企てる対抗言説の出版に精力的だった。
フーコーは、構造主義の方法を取り入れようと試みながらも、そのことによって系譜学(ニーチェ主義)という当初のモチーフを忘れてしまいそうになることと戦っていた。
だがこれら「個別的な動機」を、文章のスタイルに熱気をこもらせる「原因」とみなすことはできない。「因果性」は観察者にとっての超越的範疇だ。むろん超越的範疇のフィクション性を暴露したからといって、それを投げ捨てることはできないのだが。
■
『制度としての基本権』の読書感想文という当初の目的にもどろう。
上述したように、この時期、ルーマンは二つの課題に取り組んでいた。(1)システム理論と機能主義の接合、(2)社会学のアイデンティティを機能的説明に求めることの説得力あるプレゼン。
では、『基本権』はこれらの課題へのひとつの取り組みとして成功したものとなっているか。第一に、呈示しようとする方法論とそこから得られる洞察のcoolさと、記述の熱さの乖離が読者に違和感を与えてしまい、遂行的には失敗している。第二に、熱くプレゼンする営業課長の情熱に触れることにより、読者は感化され、遂行的に成功している。どちらでもありうる。というか、遂行性とはそのようなものだ。決定することはできない。
暫定的に、次のような結論にしておこう。
その決定不能性が!、アルキメデスの支点の消失という事態を遂行的に指し示し、遂行的に成功している。
//20041009
[GaI]序
[GaI]第1章
[GaI]第2章
[GaI]第3章
[GaI]第4章
[GaI]第5章
[GaI]第6章
[GaI]第7章
[GaI]第8章
[GaI]第9章 社会分化の理論
【5】
- 分化した行為領域への解消の表現
- 近代法は形式的および実質的法原理?を並列させつつ保持
- 分化した社会秩序は、
- 利害の調整のためにも
- 負担の配分のためにも
- 確実な予期の基礎と請求の定式を必要とする
- 分化した社会秩序は、
【6】
- 関連は準拠問題の統一性のうちに存する。
- 機能的的特定化と利害の分節化
- 動態化と行為の自由の拡大
- 相対的に自律的な下位システムの統合
- 社会のあらゆる下位システムに妥当する問題観点を利用しうる
- しかし
- 原則的なこと
- 具体化
- 下位システムのザッハリッヒな差異
【7】
- 基本権の特殊な保護機能
- 人格の構成
- 行態予期の一般化
- 経済的な充足欲求
- 拘束力をもつ問題決定
- 意識にのぼるようになる
- このような構造的配置は社会学理論によって根拠づけることができるのかどうか、どのようにしてか
【8】
- タルコット・パーソンズの行為システム理論
【9】パーソンズの基本思想
- 状況-内-行為者の志向的行態としての行為の本質からは、そしてあらゆるシステム形成の要請からは、それ以外ではありようのないような完全な問題シェーマが導出されうる。
- そのシェーマは内面/外面区別を状況-内-行為者と行為体系の区別と対置することによって獲得される。⇒AGIL図式
【10】
- それ以外のシステム問題も存在しないのなら、下位システムの区別という形式を取ることとなる。
- その都度の働きの遂行の「システム・リファレンス」を明確に区別している場合にのみ評価されうる。
- パーソンズは構造的分化という問題に中心的な関心を寄せるという方向に導かれることになった
【11】
- 通例の異論
- それは保守的で静態的な予断を含むもの、あまりにも調和的で無矛盾的なものであって、社会的生の現実を正当に評価できない
- 基本問題の抽象度のおかげで、また分岐しつつある多数の欲求が承認されているために、かのシェーマにおいては、あらゆる発展やあらゆるコンフリクトに対して、余地が開かれている
- 4つの分類項目は、本当に相互に独立的なものとして定義可能であるのか
- 4つの基本問題の自己解釈と問題凝縮のモメント
- ?
【12】
- 人間の「超越」として定式化されうる本質的な認識連関
- システムは、決して諸事物(あるいは諸人格)から成っているのではなく、諸事物(あるいは諸人格)における状態およびそれらのヴァリエーション可能性から成っている。
- ?
- 一方では、人間は自分の行為に必然的に関与するが、その体験地平はあらゆるシステム形成を――彼自身の人格性をも――超越している
- 他方では、彼の超越は主観的にすぎず、観点相関的であり、他の主体にとっては対象的となる一つの現実性のアスペクトにすぎない。
- システム形成が行為する主体を、同時にその主体性とその対象性とにおいて把握し、かかる対立を破棄する限りにおいて、システム形成は人間を超越する。
- 内部/外部の差異の構成と結合
【13】
- 構造的分化の過程に他ならないことが証明されている
- 分化の第一歩は、すでに内部/外部のうちにある。
- それは世界克服の最も基礎的なシェーマを含んでいる。
- 個々の人間の特殊な欲求は、それがシステムを超越する限りにおいて外的な問題として扱われるということ。
- 調整の必要性は内的な問題として扱われるということ。
- その際に、問題把握の区分とそれが様々なものであるということとによって様々な解決の可能性が獲得されうるということ。
【14】
- 社会システムの内的および外的な問題はさらに分節化できる
- より実効的な問題の取り扱いは、解決テクニックが問題ごとに特有のものとして発展せしめられているならば、可能なのである。
- 分節化を可能にし、不可避にしているのは、行為の本質メルクマールではなく、構造的分化の利点なのである。
【15】
- パーソンズはシステムを分析的意味において語っている
- システムとしての行為能力をもっていない。
【16】
- 機能的分化はどの程度まで構造化された現実性へと転換されるのか、それゆえに具体的な下位システム形成によって現実化されるのか、という問は、経験的な問題として開かれたままにされている
【17】
- 機能分析的考察様式と構造的考察様式との差異
- 機能的欲求と構造的システム形成的可能性の間の一定の不一致は不可避
【18】
- 社会のあらゆる問題が具体的な行為システムに委ねられうるわけではない。
- 個々の人格性は
- 行態予期の一般化は
- 経済は
- 政治システムは
- さらに、高度に分化した社会秩序はそれ自身において構造的慣性を展開させる
- コミュニケーション的一般化のメカニズムをそなえた社会構造は、本質的に自己自身によって担われる秩序であり、それは、一旦制度化されたならば、適切な行為のための持続的な動機を生み出すのである
【19】
- かかる秩序の維持は自明ではない
- 構造と機能とが合致するような古代的な事態は解体する
- コミュニケーション領域は一般化されざるをえない
- 全体社会的制度としての基本権の位置
- 基本権は構造と機能のディレンマのうちにその存在を正当化するものを見出す。
【20】
- 基本権の機能は、結局のところは、システム形成と社会的分化の諸問題から生じてくるのである。
【21】
- 分化した社会秩序は、分化していない社会秩序よりも、世界における人間の現存在の問題をより効果的に解決しうる。
[GaI]第10章 社会学と基本権ドグマーティク
【1】基本権思想の意識地平の問題
【2】基本権の制度化<-社会秩序の構造条件
【3】「潜在的」機能と構造連関
- 社会学:行為の目的論的なパースペクティヴや、価値的あるいは規範的なパースペクティヴからの脱却
- 社会学:合理性を獲得する
- 行為目的に結びつけられるのではなく、他の行為可能性との抽象化的な比較を行うという合理性
【4】社会学は行為地平の方法的に自覚的な拡大を狙いとしている
- システム維持という問題観点:行為者にとっての価値である必要はない問題観点
【5】合理的な決定技術
- 社会学:合理的特殊語法が個々のコミュニケーション領域において役割行為として現実化されうる社会的構造条件に関わる
【6】分化した社会秩序は直接的に法妥当の洞察に導くわけではない。
- 社会学的研究の概念装置は、システム比較の発見に向けられている
【7】学問的機能が特定化されており、概念装置が自立的なものであることによってはじめて、すべての分化においてと同様、ここにおいても、コンタクト一般が可能となり、有意味となるのである。
- ある世界の他の世界への翻訳の可能性が、そして問題設定と帰結との転形の可能性が、創出されねばならない
- 基本権ドグマーティクの現代的形態は、そのような思想の転換に対して準備ができているのか、またそのための装備を整えているのか、という問題
【8】
【9】基本権ドグマーティクの観念世界は請求権の形式によって規定されている。
- 基本権は、市民には権利として帰属するものとされ、義務を負うべき国家に対抗させられる。
- しかし、現実が、国家と社会の対立の世界として、公的利害と私的利害の対立の世界として捉えられるということが、そのようなコンフリクトの決定可能性の条件だということになるのであろうか。
【10】ドグマーティクの基本観念と指導的観念:国家と市民の汎通的な対立という二極化
- ←請求権という形式、コンフリクト事例に定位してきたという事実、他の観点的基礎が欠如していたという事実
- しかし利害の対立もあまり関心の対象となることはない。決定を必要とする問題を投げかけないから。
- 原告と被告という利害領域しか存在しないという想定によって、現実は歪曲されている。
【11】帰結:市民領域を保護することに主導的な役割を果す概念が酷使され、自由概念が過剰に抽象化される。→内的な限界づけを喪失する。
- 結果:自由権は平等思想に接近。
- →自由と平等は、国家行為の根拠づけの必要性についての、明瞭に異なったニュアンスを伴う二つのアスペクト
- 自由と平等という2つの主要な基本権の機能転換が進行
- 憲法請願への入り口として役立つ。
- 市民の自由権は裁判官の自由権へと転換(*ここがよくわからない)
【12】原告と被告との間の争いに決定を下す必要性があまりにも抽象的な形で決定前提の中に置き入れられるなら、そこから指示として取り出しうるものは、あまりうまく覆い隠しえたとはいい難いトートロジーにすぎない。
- →あらゆる決定が可能となる。そしてすべての根拠づけが融通無礙に稼動することとなる。
【13】基本権に関わる決定前提の意味をより集約的に充実させるということは、経験科学に定位することによって可能。
【14】われわれは利害の対立という単純なディコトミーを放棄する。
【15】とりわけ、基本権制度とその機能についての社会学的分析は、基本権の法律を通しての実現という問題を新たに設定することを可能にする。
【16】立法による基本権の実施という問題
【17】憲法テクストの固定化:認識者から原理的に独立している認識の経過ではなく、政治システムの限界の規定。
【18】憲法解釈は基本権を権利であって、国家的決定によって形成されるものではなく、前国家的権利として保護を要するものではあるが、実現のための積極的な働きかけは必要ないとしている。
- 特に定式化された留保という基準に従ってのみ、単純な立法がこれに介入できるとする。
- 介入からの保護という点においては憲法の法律にたいする優先権が表現されている。
- 基本権の現実化は、市民にゆだねられ、定式化は司法権力の手にゆだねられる。
【19】基本権の機能を知ってしまうと、上記のような思考は疑問だ。
- 権利内容としてなにが正当で、国家による認可が与えられるべきかについての決定に関しては、より広い方向づけが必要である。
- かかる方向づけは、基本権を社会秩序の機能的に重要な制度として理解することによって見出されうるものなのである。
【20】機能的分析からはいかなる唯一の正しい決定も導出されない。
- しかし有益な問題解決の評価のための拠り所を与えることができる。
- ドグマティクは憲法変遷を合理化することなく、たんに歴史的事実として受容しなければならない。
- それを合理化するためには憲法外在的な尺度が必要だ。
【21】基本権の社会的機能に定位することで、…そういった立法措置を可能にする。
- 社会学的分析は、介入と制限という思想へのこだわりを解除すること、基本権問題の複雑性と多様性とをよりよく認識すること、そしてそれとの関連において実現負荷と詳細化負荷との一部を裁判から免除し立法に転移させることによって、基本権ドグマーティクの助けとなることができる。
【22】
【23】
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【30】
【31】
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【33】
【34】
【35】