引用

本書では、他の心的システムによって、あるいは社会システムによって観察される心的システムをパースンPersonenと名づけることにしたい。そうすると、パーソナル・システムの概念は、観察者のパースペクティヴを前提としている概念なのである。そのさいに、自己観察(いわば自己パーソナル化)を含めて考えなければならない。心的システム理論であればどんな理論でも観察者のパースペクティヴを明確に用いていると考えられうるので、心的システムとパーソナル・システムはほとんど同じ意味であるということができる。そうであるにもかかわらず、心的システムの概念とパーソナル・システムの概念を区別することは依然として重要である。なぜなら、パースンという概念を用いると、観察者と関係しているということがいっそう強力に表現されるからである。社会的なコミュニケーション・システムの再生産がパースンとして帰属される関与者たちに依拠しているということを明示することが重要なばあい、社会システムの「心理化」ではなく、その「パーソナル化」ということにしたい。(187-8)

ここでパースンPersonと考えられているのは、心的システムではない。ましてやまるごとの人間がパースンというわけではない。精確に言えば、あるパースンは、そのパースンによって、しかもそのパースンによってしか果たされえない行動諸期待を関連づけ、まとめあげうるために、考え出されたものにほかならない。誰でも、自分自身からみて、また他の人びとからみてパースンであることができる。パースンであるために必要なのは、その人の心的システムや身体を手がかりとして、諸期待−−またもや自己による諸期待と他者からの諸期待−−がその人に関係づけられ、束ね合わされるということである。このようにして、ますます多くの、またますます多種多様な期待が、あるパースンに関係づけられればられるほど、それだけそのパースンは、より複合的になる。このようにいかなるパースンなのかは、そのおかれた環境ごとにまったく異なるといってよい。(585-6)