人の形をした人間

人形は人の形をしている。人に似せて作られているからだ。ではひるがえって、人形が似せられることになったところの、オリジナルであるといえる人の方は、なぜ人の形をしているのだろうか。「なぜ」という問いの立て方はミスリードであろう。だが言語という不完全なものを用いて述べる(utter/mitteilen)ならこのようにしか述べられない。人形が人の代補であるなら、人(代補されるもの)は人形の後で(à retardement)産み出される。人形だけが代補であるわけというわけではないだろう。おそらく「人に‐対する‐世界」はすべて人の代補だ。「人に‐対する‐世界」は人向けに、つまり人工のものなら人にとって(多少は)使いやすく、そうでないものなら、人にとって使いづらかったり、人にとって使いやすかったりするように存在する(これは存在論的にではなく、むしろ認識論的に言っている)。後者について、つまり人工ではないものについて、使いやすいとか使いづらいとかといった両義性が産まれるのは、それはまずは「人に‐とって‐ある」わけではないからだ。人工でないもので、かつ、使いやすいものについて考えればよい。それは、もし人というものの平均身長が、現在の半分であったなら、使いづらいものになってしまうのだろうか。そうではないだろう。そのときの人のサイズに合った、別の用途に使われるかもしれない、というだけである。使われないかもしれないし、多少は使いづらいものであるかもしれない。とにかく「人に‐対して‐アフォードする」、という点では、人工のものであれそうでないものであれ、変わるところがない。在るものは在るように在る、というわけである(ゆえに存在論的にではなく認識論的に述べなければならない。むろんわれわれが、「われわれに‐対する‐世界」を、存在論的に解決しようとする習慣をもっているということを否定はしないが)。この「人に‐対する‐世界」を「ヒューマン・インターフェースの世界」と呼ぶことにしよう。先に述べたように、これが人の代補であり、これが生産するものが人間である。シェール(肉)がコール(身体)の代補であると言ってもよいが、身体だけが人間と呼ばれるところのものではない。結局メルロ=ポンティはシェールの存在論を行うことになってしまった。シェールの存在論は帰結として、「コールがシェールの代補である」という逆テーゼを否定できなくなってしまう。この逆テーゼがまずいのではなく(ここで述べているような循環する認識論の元では、どちらのテーゼも等価であろう)、この逆テーゼが「人間がヒューマン・インターフェースの世界の代補である」というテーゼに容易に書き換えられることになり、人間中心主義的テーゼを肯定してしまうことが、われわれにとって致命的にまずいといえる。なぜなら、人間の生産を問うのに、人間を出発点とするわけにはいかないからである。だから同じ意味で、世界を出発点とするわけにもいかない。人間を代補とする世界、世界を代補とする人間、この循環を出発点としなければならない。