準ひきこもりじゃキャッチーじゃないからもう非コミュで統一の方向で。

todeskingさんのところで一週間ぐらい前に紹介されて、いまや277ブックマークに到達している件の論文を、昨日おとといやっと読みました。いや完全に周回遅れですな。昨日この記事、お兄ちゃんスレに没頭してたら書けなかった。周回遅れなりに、反応への言及も含めて若干まとめ的に。

富山国際大学国際教養学部の紀要(http://www.tuins.ac.jp/jm/library/kiyou/mokuji/2006(mokuji).htm)に、きわめて興味深い論文が掲載されている。

面白いのは後者(「かぐや姫」のほう)なんだけど、まず前者「準ひきこもり」から。

筆者の樋口康彦(富山国際大学国際教養学部、心理学)さんは動機づけ研究が研究テーマである社会心理学者で、論文本文ではまるで言及がなされていないものの、学習性無力感(learned helplessness)研究&帰属理論の蓄積(つまり社会的学習理論、もっとぶっちゃければ動機づけ研究)からアプローチしたいようである(あるいは言及しないことによって=文献表に挙げるに留めることによって、別のパースペクティヴを探しているのかもしれない。というか結論部分をみると臨床的にやりたいのかもしれない)。「準ひきこもり行動」という言葉をつかっているので、いずれにせよ、社会学ではなく心理学・社会心理学の領域で扱う問題だと考えているらしい(社会学だとbehavior(行動)ではなくaction(行為)を扱うことになる)。

hotsumaさんの指摘にあるように「スチューデントアパシー」との差異を明確にすることを怠っているものの、研究動機はひきこもりとの比較にあるようだ(論文内比較表参照。おそらく臨床単位としての「スチューデントアパシー」・「アパシー人格障害」・「人格障害」などではなく、ある社会的状態をさす社会的概念として呈示したいのでしょう)。その点では、ひきこもりに関する社会心理学的研究の蓄積が充分に蓄積されていない(というのはつまり、教科書が一冊出ているぐらいの充分さを伴っていない)のに、拙速ではないかと思った。まあいっしょにやっちゃえばいいんだろうけど。対象認識のための前提となる準拠問題は、「社会に適応できなくって、大変!」というところにあって、それはひきこもりと同じだと思った。つまりスチューデントアパシーとの差異は準拠問題の差異にあるのではないかと思ったよ(スチューデントアパシーは臨床単位の発見が準拠問題*1。たぶん)。

あと「なんでこんなオヤジの思いつきエッセーみたいなのが論文になるの?!こんなのも業績になっちゃうの?!」という反応があるけど、これは仮説出しだし(仮説として成り立ってるかどうかは別。というか、仮説を出すための背景説明で終わってるよね。でも端緒はそれでよいと思う)、なによりこんなに読み物として面白いのだからそこはOKなのだ。「面白いか?」って、こんなに反応してるじゃーないですかみなさん。ここから仮説出し、調査設計、調査、と行くわけだけど、

まず最初に出現率について調べなければならないだろう。筆者の印象では、10人に1人というほど高率ではないが20人に1人というほど低率でもないといったところである。また女子学生より男子学生に多い。

という断言ができるときは、たいてい当たる。

おわり。つぎ「かぐや姫」。

これは『竹取物語』におけるかぐや姫の進路と、準ひきこもりの進路が「同じ」だというすげえハナシ。図式化すると、

  • かぐや姫の進路
    • 月世界(元々の住処)→俗世(偽りの適応)→月世界(元々の住処)
  • 準ひきこもりの進路
    • 自分だけの世界(元々の住処)→大学生活(偽りの適応)→自分だけの世界(元々の住処)。本格的ひきこもり。

という3段階を経るため、「同じ」だというわけである。
ぼくが「こっちのほうが面白い」と言ったのは、「準ひき」論文の「あるある感」と比べて、こちらは若干の違和感があったからだ。「準ひき」論文は「あーおもしろかった」で終わるが、「かぐや姫」のほうはそのように読了できなかった。なぜか。「準ひき」でしめされる準ひき像は、ありふれていて、ある意味面白くもなんともない。下記に引用したような大学生の描写など、文学にはいくらでも登場する。

大学に入学し、真面目に登校して単位もしっかり修得している。しかし、友人はほとんどおらず、ただ自宅と学校を往復しているだけである。

友人が極めて少なく、いつも一人でいることが多い。他の学生から受け入れられず孤立しているという共通の境涯を絆にして同じ準ひきこもりの学生(キャンパスの孤立者)と一緒にいることがある。

ひきこもりの人でもコンビニには行けるという話をよく聞くが、そのように密で複雑な人間関係に巻き込まれる恐れのない場所になら出かけられるという点で、大学には来ることができているに過ぎない。

たとえば村上春樹ノルウェイの森』(1987)では主人公は授業に出席しても、出欠点呼に応答すらしない。

(ミドリとの出会いのシーン)
「ねえ、どうして今日授業で出席取ったとき返事しなかったの? ワタナベってあなたの名前でしょ? ワタナベ・トオルって」
「そうだよ」
「じゃどうして返事しなかったの?
「今日はあまり返事したくなかったんだ」

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

池澤夏樹スティル・ライフ』(1988)では、主人公は自分の境遇について自己言及をする(これを社会学では〈反省〉とよぶ)。

寿命が千年ないのに、ぼくは何から手をつけていいかわからなかった。何をすればいいのだろう。仮に、とりあえず、今のところは、しばらくの間は、アルバイトでもして様子を見る。そういうことだ。十年先に何をやっているかを今すぐに決めろというのはずいぶん理不尽な要求だと思って、ぼくは何も決めなかった。社会は早く決めた奴の方を優先するらしかったが、それはしかたのないことだ。ぼくは、とりあえず、迷っている方を選んだ。

スティル・ライフ (中公文庫)

スティル・ライフ (中公文庫)

たまたま80年代後半の小説から引用してしまったけれど、おそらく反省する自我は、文学では反復して用いられるモチーフだ。近代文学が自我の反省をテーマとしているということではなく、その程度の近代性は、近代文学にとってはたんなる前提にすぎないということだ。

さて「若干の違和感」についてだけれど、先のかぐや姫三段階のうち、第二段階(偽りの適応)から第三段階(元々の住処)への移行期、かぐや姫は、なんと、月を見て泣くのだ。

春の初めから、かぐや姫は、月がきれいに出ているのを見て、いつもより物思いにふける様子である。側で仕えている人が、「月を見るのは不吉なことです」と制したが、ともすれば人のいない間にも月を見ては、ひどくお泣きになる。
(略)
翁は、「月を御覧になってはいけない。これを御覧になると、物思いに沈んでしまう」と言うと、「どうして月を見ずにいられましょうか」と言って、やはり、月が出ると出て行って嘆いて物思いに沈んでいる。夕闇には物思いに沈まないようである。月の出るころになるとやはり、時々お嘆きになる。仕えている者たちは「やはり心配事があるに違いない」とささやくが、親をはじめ、なぜか理由がわからない。

この後かぐや姫は、自分がこの世界の住人ではないということをカミング・アウトする。「物思いに沈む」理由としては、もといた世界から迎えが来てしまうこと、それを知れば育ててくれた翁たちが心を惑わすだろうと予期すること、を挙げている。このモチーフは近代文学にはない。ここはどう解釈すればよいのか。

村上春樹の小説に、「泣く」というモチーフはなかったよなあ、と考えた。
が、記憶にひとつだけ「泣く」シーンがあったことが蘇ってきた。阪神大震災についての6つの短編『神の子どもたちはみな踊る』(2000)に所収の一篇だ。

「ねえ三宅さん」
「なんや?」
「私ってからっぽなんだよ」
「そうか」
「うん」
目を閉じるとわけもなく涙がこぼれてきた。涙は次から次へと頬をつたって落ちた。順子は右手で三宅さんのチノパンツの膝の上あたりをぎゅっと強く握りしめた。身体が細かくぶるぶると震えた。三宅さんは手を彼女の肩にまわして、静かに抱き寄せた。でも涙はとまらなかった。
「ほんとに何もないんだよ」と彼女はずいぶんあとになってかすれた声で言った。「きれいにからっぽなんだ」
「わかってる」
「ほんとにわかってるの?」
「そういうことにはけっこう詳しいからな」
「どうしたらいいの?」
「ぐっすり寝て起きたら、だいたいはなおる」
「そんな簡単なことじゃないよ」
「そうかもしれんな。そんな簡単なことやないかもしれん」
丸太のどこかに含まれていた水分が蒸発するときの、しゅうっという音が聞こえた。三宅さんは顔を上げて目を細め、しばらくそっちを見ていた。
「じゃあどうしたらいいのよ?」と順子は尋ねた。
「そやなあ……、どや、今から俺と一緒に死ぬか?」
「いいよ。死んでも」
真剣にか?」
真剣だよ」
三宅さんは順子の肩を抱いたまましぱらく黙っていた。順子は彼の心地よく着古された革ジャンパーの中に顔を埋めていた。
「とにかく、焚き火がぜんぶ消えるまで待て」と三宅さんは言った。「せっかくおこした焚き火や。最後までつきあいたい。この火が消えて真っ暗になったら、一緒に死のう」
「いいよ」と順子は言った。「でもどうやって死ぬの?」
「考えてみる」
「うん」
順子は焚き火のにおいに包まれて目を閉じていた。肩にまわされた三宅さんの手は大人の男にしては小さく、妙にごつごつとしていた。私はこの人と一緒に生きることはできないだろうと順子は思った。私がこの人の心の中に入っていくことはできそうにないから。でも一緒に死ぬことならできるかもしれない。
しかし三宅さんの腕に抱かれているうちに、だんだん眠くなってきた。きっとウィスキーのせいだ。大半の木ぎれは灰になって崩れてしまったが、いちばん太い流木はまだオレンジ色に輝いていたし、その静かな温かみを肌に感じることもできた。それが燃え尽きるまでには、まだしばらく時間がかかりそうだ。
「少し眠っていい?」と順子は尋ねた。
「いいよ」
「焚き火が消えたら起こしてくれる?」
「心配するな。焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める」
彼女は頭の中でその言葉を繰り返した。焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める。それから体を丸めて、束の間の、しかし深い眠りに落ちた。

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

ぼくにとって、この短編は村上春樹の作品のなかでも好きな方に入る作品なんだけど、順子の「からっぽさ」は村上春樹のモチーフであり続けてきたはずで、ここで涙を流すことに対して、ぼくは「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」と感嘆せずにはいられなかった。「泣きますか」「泣かせますか、村上さん」と。このシーンの強烈さが強い印象になって、忘れられない短編になったのだった。

このシーンが蘇ってきたことに引き続いて、「あ、ひょっとして、記憶は定かじゃないけれど、あの作品で、あの人が泣いてなかったっけ??」と、ぼくはあの本をめくった。あった。泣いていた。『アフターダーク』(2004)だ。場面は、物語終盤、2ヶ月も眠り続けているエリの寝室、その妹(主人公)マリがエリのベッドにもぐりこむシーン。

スタジアム・ジャンパーを脱ぎ、フードつきのパーカを脱ぐ。その下に着てきた格子柄のフランネルのシャツを脱いで、白いTシャツだけになる。分厚いスポーツ・ソックスを脱ぎ、ブルージーンズを脱ぐ。そして姉のベッドの中にそっともぐり込む。布団の中に身体を馴染ませてから、仰向けに眠っている姉の身体に細い腕をまわす。頬を姉の胸に軽く押し当て、そのままじっとしている。姉の心臓の鼓動の一音一音を理解しようと、耳を澄ませる。耳を澄ませながら、マリの目は穏やかに閉じられている。やがてその閉じた眼から、なんの予告もなく、涙がこぼれ出てくる。とても自然な、大きな粒の涙だ。その涙は頬をつたい、下に落ちて姉のパジャマを湿らせる。それからまた一粒、涙が頬をこぼれ落ちる。

アフターダーク

アフターダーク

ぼくは記憶違いをしていて、このシーンでは、エリが涙を流したのだと思っていた。2ヶ月の眠りから覚める、その記号というか、「楔」のようなものとして、エリが涙を流したのだと。しかしそうではない。泣いたのは姉の目覚めを待っていた妹マリで、ある種複雑な感情と共に、涙を流す。罪悪感、などなど(複雑な感情も伴わずに涙を流していたら文学とはいえない)。

いうまでもなく、かぐや姫の涙と、ここで引用した村上作品の(それもごく最近の作品だ)涙は、その意味合いをまったく異にしている。異にしている、というからには「これはAという意味の涙で、あっちはBという意味の涙で…」と同定できなければならなさそうだが、当然ながら、村上涙はその意味を同定できない。同定しようという解釈学はありうるし、あってもよいだろうが、同定をすり抜けるからこそテクストであり、文学ではないか(これをデリダは「多義性」に対して「散種」とよぶ)。

テクストであるから、かぐや姫の涙でさえ、その意味を同定できない(理論的には)。ただし、この「かぐや姫」論文においては、同型性を示すための参照軸として、確固とした意味同定を与えられたものとして、参照されている。
違和感の源泉はそこにあって、「準ひき」が泣くシーンなど引用されていない(筆者は目を向けていない)が、論理的にいってかぐや姫の「泣き」と同等の(等価な)できごとが第二段階から第三段階への移行期になければならないはずだ。
しかし、当然のことながら、かぐや姫とは異なり、準ひきとよばれる個々の対象は、かぐや姫の「泣き」と等価な「泣き」を行わない。このように考えることは、なにも事態を複雑にして分析・考察が雑だとあげつらったり、ひきこもりのような社会現象を学的分析の俎上から文学へと引き摺り下ろして科学的分析の無力さを笑ったりしようとすることには、必ずしもつながらない。ここでぼくがいいたかったのは、「これってアリガチ!」という「あるある」系言説に共感を寄せるよりも、その言説に入っている亀裂にこそ共感する余地があるのではないだろうかということだ。

*1:「どうも他の疾患と違うようだが」「いままでの臨床ノウハウが通用してないみたいなんだけどどうなってんの」みたいな。