ジンメル『貨幣の哲学』Kap3(1)

貨幣の哲学

貨幣の哲学

とりあえず抜書きっておくよ。

ところが進歩した技術的な文化は、まさに後者の高い分化した需要のために比較的より単純でより直接的な生産方法を所有するのがつねであるが、これにたいして生活の基礎的な必要物の獲得はますます多くの困難に出くわし、この困難はますます複雑化した手段によって克服されなければならない。一言でいえば文化の発展は、実際に近くにあるものについては目的的な系列の延長へとむかい、実際に遠くにあるものについてはその短縮へとむかう。そしてここでは道具というきわめて重要な概念が、目的行動にかんするわれわれの考慮のなかに現れる。あの目的論的な曲線の原始的な形式は、それでもわれわれの行為が外的な客体を反作用へと促し、この反作用が客体の特有の性質にしたがって経過し、われわれに望ましい影響の地点に到達するということである。ところで道具が意味するのは、主体とこの客体とのあいだへの法廷*1の挿入であり、この法廷は両者のあいだのたんに時間的・空間的のみではなく、また内容的にも中間的地位をしめる。それというのも道具は一方においてはなるほどたんに機械的に有効な外的な客体であるが、しかし他方ではまたたんに【それへ】作用がなされるのみではなく、さらに【それによって】作用がなされる――手によってのように――客体でもあるからでもある。道具は強化された手段である。それというのも、道具の形式と存在とはすでに目的によって規定されているのにたいし、原始的な目的論的な過程にあっては自然のままの存在物がやっとあとになって目的に役立てられるからである。野性のままに成長する果実で満足するかわりに、種子を地中にまき、そののち植物の果実を享楽する者は目的論的に行動するが、しかし目的という現象は彼の手の限界において終わる。しかしこの機会に鍬と鋤とが使用されれば、自然の過程そのものが始まる地点はさらに押しやられ、主観的に規定された要素は客観的に規定された要素にたいし延長される。道具によってわれわれはたしかに目的系列に新しい項を任意につけ加えるが、しかしそれによって示されるのは、たんにそれぞれの道がまっすぐであるのに応じてけっして短いわけではないということにすぎない。道具は、われわれが外界においてわれわれの産物と呼ぶことのできるものの典型である。それというのも道具はいわば一方ではまったくわれわれの力によって形成され、そして他方ではまったくわれわれの目的に入りこむからである。まさに道具そのものが目的ではないということによって、道具には目的が所有するあの相対的な独立性が欠けている。目的がわれわれに絶対的な価値としてそのまま妥当するにせよ、あるいはわれわれが目的にわれわれへの効果を期待するにせよ、そうである。すなわち道具は絶対的な手段である。

国家への参加は国家があたえる外的な保護によって、一般に多数の個人的な目的行為の条件であるが、このもっとも一般的なことをまったく度外視すれば、――たとえば私法の特別な諸制度は個人の意欲に、他のばあいであれば個人にまったく拒否されたままの実現可能性を得させる。個人の意志は契約、遺言、養子縁組などの法形式の迂路をとって進むことによって、公共によってつくられた道具を利用し、この道具が彼自身の力を幾倍にもし、その作用線を延長し、その結果を確実にする。《偶然的なものがたがいにすり減らされ、利害の一様性が寄与の集積を許すことによって、多くの者の相互作用から客観的な諸制度が成立し、これらの諸制度が諸個人の無数の目的論的な曲線にとってのいわば中央停泊地を形成し、そうでなければ達成できないものへの曲線の延長にとってのまったく合目的的な道具を諸個人に提供する。》教会の礼拝についても事情は同じである。すなわち礼拝は教会の総体によって準備された道具、教会の総体にとって典型的な感情を客観化する道具である。――たしかにそれは宗教心という内部と上部とにある究極目的にとっての迂路ではあるが、しかし道具をへる迂路であり、この道具はすべての物質的な道具とは異なり、その【すべての】本質を、個人が単独では、すなわち直接の道をへては獲得できるとは信じない目的にとってのたんなる道具であることにもつ。

*1:「審級」だろうな。