ルーマン『情熱としての愛』(1982)

Liebe als Passion. Zur Codierung von Intimitaet

Liebe als Passion. Zur Codierung von Intimitaet

Love as Passion: The Codification of Intimacy (Cultural Memory in the Present)

Love as Passion: The Codification of Intimacy (Cultural Memory in the Present)

  • もちろんこれで予習━━━━(n‘∀‘)η━━━━!!!!

  • この辺役立つかも━━━━(。A。)━━━━!!!!

恋愛学がわかる。 (アエラムック (51))

恋愛学がわかる。 (アエラムック (51))

山田昌弘daisensei

恋愛感情は、単純な感情とは異なって、単一の行動欲求には還元できない「複合的感情」である。……つまり、恋愛というものは、さまざまな他者に対して生じる欲求を解釈する枠組みとして使用されている。(156)
「恋愛という解釈枠組み」は、近代社会になって生じたものであることを強調してもいいだろう。柳父章氏が指摘したように、日本で恋愛という語が翻訳語として作られたのは明治時代である。彼によると、それ以前の日本社会には、西欧文化で言うところの恋愛は、存在していなかったという柳父章翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)』)。ヨーロッパ文化圏でも事情は同じである。社会学者、ニコラス・ルーマンによると、17世紀後半になるまで、ヨーロッパ社会でも、恋愛(Liebe, love, amour)という言葉で深い人格的なコミュニケーション関係を把握することはなかったという(Luhmann, Liebe als passion)。
もちろん、近代社会以前に「特定の他者を求める欲求」が存在していなかったわけではない。……しかし、それらの欲求を統合して「恋愛」とラベルする解釈枠組みが存在しなかったのである。(157)

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

↓はぼくが1999年に書いた雑文(書評)です。

これは面白くて一気に読んだ。恋愛をできるようなコミュニケーションスキルから疎外されている「恋愛弱者」をいかにして救うか、というスタンスを徹底して貫いている。彼女ができない男のプレッシャーや「楽しそうにしてるやつらをぶっ殺してやりてえ!」というルサンチマンをうまく汲み取っている。公的には、恋愛するのもしないのも自由のはずだから、他人の恋愛は自分とは関係ないはずで、そういう、自分とは直接関係ないのに嫉妬することを「法界悋気」〔ほうかいりんき〕というそうだ。あるいはルサンチマン。「若いときにニーチェを読むと、自分が『弱者』ではないような気分になる」(105頁)という指摘が面白い。

ニクラス・ルーマンというドイツの社会学者はヨーロッパにおける「愛」観念が18世紀後半以降に恋愛小説によって、つまりマスメディアによって庶民化したといっているが、小谷野は古今東西の、主に近代日本の文学作品やマンガを、徹底して「もてない男」の視点で(男の視点ではなく!)読み解いている。そこで面白いのが、社会学的な近代化論と「恋愛の困難」が平行しているということ。小谷野によると、「法界悋気」を生むような「『寂しさ』や『孤独』というのは、近代社会が生み出したものだということに一応なっている」(116)。つまり、地域共同体、親族共同体が解体して個人が個として放り出される[前近代から近代へ]、しかし、近代化を進める、すなわち西洋に追い付く(大正期)、経済的に日本を立て直す(1970年まで)、という一つの目標に向かって全員で同時に行進することによって、共同体に組み込まれることができた[前期近代]。ところが達成すべき目標が自明なものではなくなることによって、世の中は期待はずれに満ち、不透明なものとなる[一般的にはポストモダン宮台真司の成熟社会、ぼくがよく使う用語では後期近代]。

人間どうし、お互いの意識は覗くことができないのだから、そもそも「不透明」なことは自明であったはずだ。お互いが相手を見通せないこと、これを社会学用語でダブル・コンティンジェンシーという。当然D.C.は近代化の過程で徐々に深刻なものとなっていく。後期近代はD.C.の時代といえる。引用した次のような箇所によく表現されている。

…匹田のもとに和子がやって来て、二人は〈あなぐら〉で抱き合い、接吻する。匹田はそれ以上のものを求めるが和子は「結婚するまで待って」と拒絶する。おそらく、性行為そのもの以上にむずかしいのは、こういう際にどういうコミュニケーションを行えばいいかということなのである。現代ではこの小説の発表時以上に事態は混沌としている。女が望んでいるのは、結婚なのか、愛なのか、欲望の充足だけなのか。そこに男自身の女への欲望の偏差が絡み合うから、双方が探り合いながら瞬時にして適切な言葉を選択していかなければならない。そしてまさにフロベールの『感情教育』のように、そういう男女間のコミュニケーションの技術は、年上の女性にでも教育してもらうしかないのだが、現代ではそのような場所は存在しない。(32)

この「期待はずれと不透明性」のなかでの弱者を小谷野は「恋愛弱者」とよび、宮台真司のいう「性的弱者」と区別する。前者の欲望は、「生身の他者にセックスのような形で自分を受容してもらいたいという欲望であり、それはオナニーが終わった後に来る欲望」(67-68)であるとする。上野千鶴子は「コミュニケーションスキルを磨け」といって済ませるわけだが、「恋愛弱者」はそもそも磨くための土俵に乗せてもらえないのだから、解決にならない。「人はいずれ『他者』を求めるようになる。だが、他者を『恋愛』のような形で獲得する能力を持たないものをどうやって救済すればいいのか」(68)。

しかし、こういう言い回しに僕自身が完全に共感できる、ということ自体が、この本に対する違和感でもある。つまり、この本は普遍的な「文学」として読まれてしまうのではないか。著者自身、あとがきで「この本はぜんたい研究なのか評論なのか啓蒙書なのか何なのか、と問われたら、私としては、エッセイであると答えたい」(195)と述べている。ようするに、たいていの人が薄々感じているようなことに言葉を与え、「本音」を暴露して「建て前」の世の中にぶつける、という構造をとってしまうのではないか。しかし、このような「本音」は実はありふれている。というよりむしろ、浅田彰がいうように、日本に足りないのは「建て前」のほうで、べたべたとした「本音」だけで満ちあふれているのが日本社会ではないのか。ルサンチマンでわかり合っている共同体のミクロコスモスが、日本を覆っている。逆にいえば、「恋愛教」も、これみよがしに自分の恋愛を語ることも、ルサンチマンの裏返しであり、結果的に・補完的に共同体を再生産するのではないか。そう考えると、上野千鶴子の「恋愛やセックスをしなければ現代思想の深みはわからないわよ」(189)という発言も、「恋愛やセックスをしても現代思想はやれる」というアファーマティヴ・アクションとしても読めるのではないか(実際にはそうじゃなくて、さっきいったルサンチマンの裏返しだとは思うが)。

ただ、最後に肝心なことを付け加えれば、「もてない男」のアファーマティヴ・アクションはまだまだ足りないので、絶対に必要な本だとは思った。電気グルーヴ以降、あるいはそこへ通じる系譜、あるいはそこからの系譜、天久聖一+椎名基樹モテたくて…』を通過点とする系譜に、本書は位置づけられるかもしれない。

フランス恋愛小説論 (岩波新書)

フランス恋愛小説論 (岩波新書)

快楽の転移

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