編集的、コンピレーション的

ば〜れんたいんば〜れんたいん

先日コンピレーションCDを作ったというエントリをポストしたけれど、じつはそのCDを作る前にある方から、その方がコンパイルしたCDをいただいていた。会う機会があったので、ぼくはそのCDにダメ出しをした。ダメ出しのポイントは「今夜はブギー・バック」が収録されているという点だ。コンピレーションCDの文脈は、編集者が強引にでっち上げなければならない。しかし、彼女のCDにおいては文脈が「ブギーバック」によって強く規定されてしまっている。このような批判を、ぼくの個人史的なパースペクティブに還元することはたやすい。だが、彼女にとっても、「ブギーバック」は数年かかってやっと「これはいい曲だ」と認めることができた、いわくつきの曲である。そのCDをもらった別の女性は「あなたが私のことを好きなのかと思った♪」と言ったらしいが、そしてコンパイラである彼女の意図を的確に読み取ってくれていたらしいが、それは稀な読み(聴き)である。スイートでメロウな流れを作りたいのであれば、「ブギーバック」ははずすべきだったのだ。その他の選曲はよかっただけに、全体をぶち壊す1曲を入れるのは、まずい、それも、その曲に全体性を任せるような挿入の仕方はまずい、という意味のことをぼくは指摘した。

ところでぼくのCDもダメ出しをくらった。ただ1点、13曲の流れが、6曲目までと7曲目以降とで分断されてしまっている、というのがそのポイントだった。前半を支配するPort of Notesの路線で1枚のコンピレーションを作るべきだった、と。もっともであると思った。今回、A Hundred of BirdsのCDの発売という事件に触発されて急遽収録曲の入れ替えを行なったのだが、その応急の処置が裏目に出てしまったようだ。なんでもお気に入りのものを詰め込む貧乏性から脱却しなければ、ハイ・フィデリティ街道の道のりは長い。

さて、CDを交換した形になった彼女と現在企画中なのが、「短編小説コンピレーション」である。短編小説を10本まとめて手作りの小冊子にして、装丁等も含めてその美しさを競いあおうという企てだ。文庫だと見開きがA5サイズになる。A4の紙に文庫の4ページが収まる。サイズはこれで統一し、表紙などは各自がデザインする。これでちょっと困ったことに気がついた。ぼくはそもそも短編小説をそんなに知らない。というか、好きな短編小説を挙げていけば、ほとんど村上春樹か彼による翻訳になってしまう。そんなものは「ぼくのコンピレーション本」にはならない。たんなる個人編集による村上春樹アンソロジーだ。そんなわけで、村上春樹に全体性を縫合されない、突出した作品を書庫の中から現在探索中である。とりあえずKの12ページの短編をスキャンし、画像ファイルにしてワープロファイルに差し込んでみたが、なかなかよい出だしなので、自分では完成が楽しみなのだが、これも出来上がったらここで紹介しようと思う。