買ってはいけない・読んではいけない2

KIN139

いなばさんからトラバをいただく。

貴戸本に関するエントリ(http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20041210#p3)を書いた後に思ったことは、いなばさんはそもそも「本来『サバルタン』の概念自体が、そういう融通無碍なものなので、変に神秘化したり特権化してありがたがるものではない」(http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/books.htm)と述べており、つまり、サバルタンなんてこの程度のものであって、「その前でたちすく」んだり(斎藤環)「不可能なもの」とよんでみたり(大澤真幸)しても何の利得もない、と言っているのだから、いなばさんのサバルタン理解に違和感を唱えるのは筋違いじゃないか、ということ。ぼくはサバルタンのような前世紀的概念を使用すること・そこに到達すること自体はどうでもいいというか学的なファインディングスをほとんどなにも付け加えないので、むしろ・だからこそ、こんなもの出版してどうすんだよ買っちゃダメだ、と言いたかったのでした。

とりあえずいなばさんの貴戸本擁護を荒く要約すると「【1】質的研究の手続きはとりあえず修論レベルではクリアされているし、【2】難癖をつけられそうな『サバルタン』概念の使い方も間違いとまではいえないのだからそこは致命的な欠陥にはならず、【3】教育問題の経験的研究というマーケットでは商品価値をもつだろう」ということになりそうで、【2】に関しては同意。ということになりそう。ではなぜ評価がわかれるか。いなばさんの「別館の別館・13日エントリ」について思うところあれこれ。

ぼくはある時期以降完全に引きこもって安楽椅子化したので、ファクトファインディングがあるだけで点が甘くなる、というのは認めます。でもファクトファインディングって大事だよ。それを軽んじて気の利いたことだけ云おうとして結果ダサクなった日本社会学の惨状の見本市が『岩波講座現代社会学』じゃん。

このハナシは例の(先日の)「社会学の教科書」問題で、

日本社会学における誰もが認める「講座」の不在とゆーのをなんとかできないか。3度目の東大講座は延々時間をかけてまだ未完だし、完結はしたものの岩波講座はただのぬるいエッセイ集であんなものはただのクソである。(理論と印象論だけでまともな実証研究の案内がひとつもない。)
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20041125#p1

から連続して読めるのだけど、ぼくの考えでは、まず、東大講座が未完であるような現状・という社会的事実、がそっくりそのまま社会学的なファインディングスである、と思う(といってもまだ出てないのは3冊だけで、しかも3冊とも出しやすそうな巻なのだった。今気づいたけれど。でもいなばさんの「なんとかならんか感」はわかる)。どういうことかというと、ある時期から「実証主義」という言葉が悪口としてしか使えなくなった(そもそも「実証主義は選択された形而上学的立場のひとつにすぎないのだから社会学がそれに固執することはありえない」*1し、アンチ実証主義をいうこともしたがってたいして意味はない)というときの「ある時期」をはさんで、今回の東大講座は刊行中であり、そうすると素朴に「実証研究をしました。こんな蓄積があるので先行研究としてみなさんリファーしなさいね」と述べることが困難だということになる。

そこで代替物として出てきたのが「実証的」とどういうわけか翻訳される「えんぴりかる」なもの(→http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040304#p2)で、質的・量的を問わず、方法論に頓着しないものであればなんでもオーケー(つまり方法論に頓着してればとりあえずエヌジー)という風潮になってきた。じゃあ、実証主義じゃなくていいからそのえんぴりかるなものを蓄積すればいいじゃん、ということになるかというと、そうはならず、えんぴりかるなひとたちが「それって方法的に脆弱!」と突っ込みを入れあう、なれあいというかぬるま湯状況が「ある時期」以降、ということではないですかね*2

じゃあみんなやっぱり方法論的なものを要請してるんじゃん、ということになりそうだけれど、どういうわけだか「理論」に(あるいは反理論wに)それを求めるということはないようですね。どういう事情かは知りませんが。もちろん言説分析をするならフーコーをバイブルに、みたいなのはあるかもしれませんし、「ナニナニの起源」を言うときに「ここでは構築主義の立場を採用する」とかいう一文を書き込んだりとか、あとは社会的再生産のハナシをするときにブルデューを引いたりとかはあるのでしょうが、はっきりいってぜんぶいらないですよね、これらは。フーコーに忠実な言説分析はえんぴりかる派にはほとんどなくて(全部見たわけじゃないから「ほとんど」としかいいようがないのだけれど)、フーコーに忠実たらんとするなら「フーコー研究」をするしかない。たんに日常的知識が社会的に文化的に影響を受けている、とかいうために・あるいは「反本質主義」といいたいだけで「構築主義」といってみる研究。「社会化」「役割取得」でいいのに「ハビトゥス」がどうとか。

目も当てられないような低レベルのものばっかりぼくが意識しすぎ(バカばっかり相手にしすぎ)だからこういう現状認識になるのかもしれませんが――というかまさにそうなんですが――しかし実際にアカポスを得たり論文を量産できたりするのはこういう「偏差値45ぐらい」の方々なわけで。

そこで、【3】の問題として、「偏差値45」が「偏差値45」をマーケットとして本出せばそれなりに売れるに決まってるのだけど、学的に付加されるものがないのは経済性がないと思う。ぼくは貴戸本にはファインディングスがないと思う。偏差値45を50ぐらいまでもっていく問題集あるいは参考書としての価値がないと、ぼくはそれを学的なファインディングスとはよびたくはないからです(「ファクトファインディング」というときの「ファクト」に何を含めるのか、という問題があるけれども、方法的含意が引き出せなければ「ファクト」であるはずもなく(方法なしにどうやってファクトを経験するのか)、ぼくは方法的・理論的含意をもって「ファクトファインディング」とします)。

【1】に関する評価は微妙なところで、それはぼくが【3】のマーケットの問題や、上述えんぴりかる跋扈の問題に拘泥しているからなのですが、ええと、ファインディングなしの質的研究って、何のイミがあるんでしょうか? もちろんここでの「イミ」ってのは、学的にどんな利得があるのだろうか、ということですが。貴戸本読んでも(ウヴェ・フリックの翻訳読んでも)その読者が良きファインディングスをもたらす良き研究者にはならないと思う。まあ「修論として通らない」というバトーはここでは関連してこないですが(修論にそこまで求めるのは、変)。

貴戸本罵倒の整理ですが、ばくはえんぴりかるラインに貴戸本をのせた上で、方法論的含意を導きだすことができない・筆者がやっていない本として定義し、さらにうんざりするほど量産されるその手のラインからの出版・アカポスのアリバイ作成・教育問題派マーケティングに加担する商品として、罵倒させていただきました。某所で「内輪喧嘩」評が出ていましたが、むしろ大学内部で生産する、という「内輪」にいると、こういうものを今批判することは難しいと思います。ぼくが小熊さんだったとしても、やはりえんぴりかる研究を学生に勧めると思う。「生産の場では労働者は冷静に判断できないものです。だから消費者によるボイコット運動」(柄谷)なのです(笑)。いや、カラヤンの世界社会論はよく理解できていないで言ってますが。




長くなった!(理由はいなばさんだけじゃなくてリンクからくる素人さんにも向けているから)

さて、貴戸本とは関係なく、サバルタンwですが、

「だから内的観察から脱出できないのはただのアホだ」というのも分からないではないのだが、しかしその「治癒不能のアホ」こそがまさにサバルタンであり、そういうものが存在するという事実は内的は当然外的な視点からも否定できないんだから、それなりの対応が必要では、と思うのだが。

うーと、これだと「木戸理恵がサバルタンだ」と読めてしまいますが、そういってるのではないですよね(笑)。

ぼくがいいたいのは、
〈登校/不登校〉属性・〈成人/子ども〉属性・〈非ひきこもり/ひきこもり〉属性……などなどが帰属されるところの人格が、かかる属性を束ねる超越的単独性として事後的に措定されることになり、ゆえに諸属性による確定記述(対象化)には回収できない剰余のようなもの(〈魂〉!)が帰属の効果として立ち現れてしまい、ゆえにいかなる語りからもその声を聞き取ることのできないサバルタンが生じてしまい、そういった他者性=ノイズをサバルタンとして想定しなければならない、ゆえにサバルタンたちへの不可能な漸近というやりかたを取らざるをえない、「存在の金切り声」を聞くために……
といったような前世紀的図式を「含意として導く(ファインディングとする)」ことにいまさら学的価値はなく、
そのような聞き取れないはずの声を亡霊の声として聞いてしまっているあなたはなんで聞き取れたんですか?エスパーおめってことですか?
……ということです。
そしてその解答(なぜ亡霊的に聞けちゃうのか)として、単一のバイナリ・コードからすれば「外部=ノイズ=混沌」と言いたくなっちゃうようなものは、別のバイナリ・コードの作動にすぎず、前者のコードの環境であるにすぎない。そして、われわれの心的システムにおいて単一のコードのみが作動しているなどということはほとんどありえず(あるヒトを「不登校者かつテレビっ子」として観ることは容易だ)、かかる帰属の「効果」としてのサバルタン性が「わかっちゃう」のだ。――という提示をしただけです。
ここから、

内的視点から脱出して外的視点に到達することはいくらでも可能だがそのありとあらゆる可能な外的視点さえも突き詰めれば〈私〉=宇宙という名のある「内部」に閉じこめられているじゃないの

というとき、「外的視点B」は「内的視点A」にとって「外的」であるわけですが、「視点Bの世界」がBにとって内的であるのは、これは当たり前です。

ルーマンジャーゴンでいいましょう(楽だから)。システムAの作動をシステムBが観察するとき、これは「(Aに対する)外的観察」である。しかしAもBも閉鎖系であるのだからBがAより優位であるとはいえない。単にメタでしかない(セカンド・オーダーでしかない)。BはCによる観察にさらされる。だがCも単にメタでしかない(セカンド・オーダーでしかない)。ゆえにメタのメタはない。










とはいえ。さばるたんに反応してしまいましたが、貴戸本でサバルタンって1回しか出てきませんよね(笑)。たしか。でもついでだから書いてみました。長文もうしわけありません。

*1:cf.たしか伊勢田本?

*2:そういった事態を〈構造機能主義パラダイムからパラダイムなし=神々の闘争への転換〉とかなんとか安易に整理するのもインチキだと思うのですが。こういうインチキ整理の跋扈も「ぬるま湯状況」のなれのはてだと思う。