抜書き

  • Luhmann, Niklas (1988) ‘Closure and Openness: On Reality in the World of Law’, in Teubner, Guntner (ed.) Autopoietic Law, Walter de Gruyter.

たとえば、人間の身体は生命の統一性ではなく、意識的な知覚の、あるいはコミュニケーションの統一性である。個々の細胞は、閉じたオートポイエティック・システムとして、遺伝的再生産のコンテクストの統一性を別にすれば、身体のいかなる統一も観察できるようになることはありえない。有機体は再生産におけるひとつの推移的段階にすぎないからである。同様に、人格は、コミュニケーションの目的のためにのみ形成された統一性であり、たんに割り当てとアドレスのポイントでしかない。つまり、意識はそれ自身のオートポイエティックな統一性を(人格としてではなく)形成するのだ(それは、それが人格であると想像する可能性を排除しない)。


肉体と人格性は、それゆえ、複雑性の縮減であり、統一性の総合である。それらはより高いオーダーのシステムにおいて、連続体の物質性の相を観察するために用いられる。それらは、それに関して示されたものより他のオートポイエティックなシステムの構造を処理しなければならない。この意味で、「形式の法則」(スペンサー・ブラウン)に従って、身体や人格がそれ自体であるところのものではなく、観察を通してあるところのものであるととらえることは、確かに許されることであり、必要なことである。

コミュニケーションはまた、現実の、社会の構成物が法へと媒介される方法である。法は、「女性」「シリンダ・キャパシティー」「住民」「タリウム」のような言葉が、法の内部でも外部でも十分に一貫性をもって使用されているかどうかということに関わる必要もなければ、関わることもできない。その程度まで、それは、コミュニケーションによるコミュニケーションの社会的再生産のネットワークによって維持されている。女性やその他のものが実際に存在しているかいなか、といった問題が生じたとしたら、それらは脇にどけられるか、あるいは哲学へと差し向けられうるだろう。


たしかに、一般的な物理的/化学的/生物学的な物質的連続体は、社会システムの分化の特殊な効果とは区別されなければならない。しかしながら、システム分化は、システムの境界(この場合内的境界)に拘束されない持続的な現実の仮定をさらに強化する。そしてそれは、情報処理の結果として到達することができるようなものではない。この意味で、法はそれ自体では作り出す必要なしに、社会が既に成し遂げた現実構成に関与するのだ。それは言語および法システム内外の言葉を多かれ少なかれ一貫した使用を利用する。

法はそれ自体ひとつのオートポイエティック・システムとして、社会内で分化する。それは、狭義の意味での言葉を与え、法的でないコミュニケーションでは理解できない意味を与え、それ自身の造語を加える(たとえば義務、遺言)機能的に特定化されたコミュニケーションのネットワークを作ることによってである。それは法によって必要とされる変換をコミュニケート可能にするためである。タリウムがセメントの生産において必要であるかどうか、そしてそれはいかなる結果をもつのかといったことは、特に法的な問題ではない。しかしながら、この問題に法的な関連性を付加するのは、環境法が発達させたこのケース(でなければ別のものが)であるかもしれない。もし新しい発見がこの領域でなされたならば、その化学的・経済的重要性にかかわらず、法的な重要性を持つかもしれないし、そうでないかもしれない。

たしかに〈性〉は、金塚が言うように、「売春における性行為と、婚姻内のそれ」とが分節化されるとともに誕生したのだし、そうでしかありえない。ここで注意しなければならないのは、これは単に道徳的な価値づけだけの問題ではないということだ。……


これは何を意味するのか。近代家族が男性=賃労働者と女性=家事労働者(主婦)とから成り立つのだとすれば、そして〈性〉が女性の「主婦」と「娼婦」への相補的分断とともに誕生したのだとすれば、〈労働〉の誕生は〈性〉の誕生の条件をなす、あるいは両者は論理的に同値であるということだ。……ここに、今われわれが知っているような「男性=賃労働者」「主婦=支払われない再生産者としての家事労働者」「娼婦=支払われる再生産者としての性的サービス労働者」という性別役割のトリアーデ」が構造化された。このとき、女は「主婦」と「娼婦」とに二分されつつ、資本制との関係においては、男性労働者の再生産者として共約すべき位置価を与えられることによって、ついに近代的な幻想としての〈女〉となったのであり、したがって、そのような〈女〉観念を特異点とする〈性〉の観念と諸実践がそこに成立しえたのである。