ハラスメント同定とコンテクスト

最近話題のこのニュース。

「訓告処分」に至った経緯、つまり同教授の行為を「ハラスメント行為」として同定するに至った経緯を詳しく知りたいと思った。
教授S1の行為はS1によるコンテクスト・チェックにおいてハラスメント行為ではない、と同定されていたことは容易に推察できることだが、学生S2のコンテクスト・チェックにおいてS1の行為は逸脱的な行為として同定された、というのがこの出来事の概要だろう。
ここで重要なのはS1のコンテクスト・チェックとS2のコンテクスト・チェックのどちらが「より」不適切なものだったのか、という同定が、第三者によっていかにして可能だったのか、という点だ。
ここで「より」という表現を使わなければならない理由は、(1)複数のコンテクストが同時に、それぞれのコンテクストどうしは互いに一貫しないものだとしても「同じsame*1」行為(この場合、先行する「抱き締めて」行為)がコンテクスト・チェックをパスすることがありうるということは当然であること、(2)しかしS2が不当性を認識している以上、これらコンテクスト間の妥当性比較が行なわれなければならないという実践的要求。
さしあたってアカハラ・セクハラのような「当事者間の非対称性」を前提として文脈にのせられた概念の適用にあたっては、被害者(と自ら同定している)当事者の被害感情を最大限考量する、という方針が採用されているようである(詳しくは知らない)。
記事を読む限り(不当性同定ではなく比較考量が)難しいケースであるように見えるのだけれど、ある結果・決定を導出している以上、崇城大はコンテクスト間の比較考量に「うまくいった」のだろう。その経緯は、社会学徒としてぜひ知りたいところだ。
ぼくは個人的には、S2が「やめてほしい」という意思表明を何回行なったのか、という回数の問題ではないか、と考えている。2回ではダメで、3回言ったらS1がそこで自分のコンテクストを覆さなければならなかった、のような。ひどく単純でばかばかしい考えだと思うかもしれないが、「第三者による事柄の全体性同定」というそれ自体が出来事であるようなことが、他のやりかたで正統性を得られるとは考えにくい。

それとまったく関係が無いけれど↓はワラタ。

*1:not identical