ひきこもり「問題」

KIN114


id:ueyamakzkさんが、先日の拙エントリ(斎藤環氏の『中央公論』誌での連載記事への感想)

を引用してくださっています(多謝)。

議論でも問いかけにたいする回答でもないのですが、触発されるところがあったので、「ひきこもり」という問題系について思うところを(応答として)メモしておきたいと思います。
あいかわらず推敲なしの書きなぐりメモですが、当はてダはぼくのメモ帳として使っている場所ですので、あしからず。

以下、論点をみっつに絞って順番に書きます。論点はそれぞれ、準拠システムの違いに応じています。順に、(1)id:hidex7777の心的システム、(2)社会システム、(3)引きこもり当事者の心的システム、を準拠システムとします。

  • (1)id:hidex7777とはだれか?
    • ぼくは大学生・院修士課程当時(1993〜2000)、ひきこもり当事者でした。
      • 「ひきこもり」は問題可視化のための社会的カテゴリであり、「原因」ではありません*1
      • つまり、当事者において現われている症状は多様であり、特定できないものですが、「社会問題」として馴致する作業として、当該カテゴリは導入されました。
      • つまり、ぼくの心的システム*2に準拠して記述を行なうには、ぼくの症状について「のみ」語らなければならない。そしてそれは「ひきこもり」について語ったことには必ずしもならない(「必ずならない」ではなく、「語ったことに必ずなるわけではない」ということ)。
    • ぼくの症状は、対人恐怖と鬱でした。
      • これらの病名も社会的カテゴリであり、つまり症状にすぎず、「原因」ではありません。症状としてのカテゴリが「対人恐怖」や「鬱」といった水準のものと、「ひきこもり」といった水準のものと、二つの水準が登場しましたが、この問題については後述。
    • 先に現われたのは対人恐怖で、これは幼少期から潜伏していたものです。顕在化したのは大学に入学してすぐで、そこからいわゆる「ひきこもり」の生活が始まります(当時は「ひきこもり」というカテゴリは人口に膾炙していなかったように思います。もちろん文献は出ていましたが、目にしたことはありませんでした)。
    • 対人恐怖は大変苦しい症状でしたが、引きこもり生活を維持していれば、「差し迫った不都合」は生じません。
      • 「差し迫った不都合」とはぼくにとっての不都合ですが、対人恐怖自体が不都合であったことは事実です。しかし病院へ向かうことの恐怖(初診の恐怖)を避けるという「都合」と比較したときに、引きこもるという選択肢を選択しないこと(引きこもらないという選択肢を選択すること)に動機づけられなかった、という事実を、事後的に内部帰属すれば、それは「差し迫った不都合」ではなかったと――現在の視点からは――みなすことができます。
    • 過程ははしょりますが、対人恐怖が「差し迫った不都合」に転じるのは、鬱が発症してからです。《対人恐怖によって自己実現が図れない→希望を失い、絶望感しか感じられない→鬱の情態性の慢性化・反復→鬱状態の固着》という過程をたどりました(この記述は一部、神経システムへの準拠を含んでいます。あるいはシステム理論でいう「構造的カップリング」の記述となっています)。
    • 鬱の発症時期は大学3年生の時期でした(これをぼくは第一次鬱ピーク期、とよんでいます。プロフィールページid:hidex7777:aboutの履歴参照)。
      • ただしこのときも通院はしていません。初診の恐怖を避けるためであれば、死んだ方がましである、と感じていました。
        • (この記述は正確ではないと思う。じっさい、イエローページで精神科を探し、病院の前まで行って引き返す、というパターンを繰り返していましたから、「できれば治って欲しい」とは思っていました。しかし事実として初診の恐怖に耐えられなかったわけですから、ぼくにとっては通院するより死ぬことの方が「都合」にかなっていたのだと、事後的には記述せざるをえません)
      • 当時の症状はおもに希死念慮です。
    • さて、「第二次鬱ピーク期」は修士課程2年のときです。修士論文を少しずつ書き進めながら、緩慢に鬱状態が増幅して行き、書くことができない・思考することができない状態に陥りました。
    • これが事実上「差し迫った不都合」となり、近所の大学病院で初診をします。
      • 修士論文を書けないことがなぜ「差し迫った不都合」になるのか、不可解に思う方も多いと思います。ぼくにとっても不可解です。実際、修士論文が書けなくて修士課程を延長する学生は大量にいます。
        • よくわかりませんが、途中まで書きかけた論文が先に進まないことはぼくにとって非常につらいことでした。思考やテクストはぼくにとって(おそらくすべての「作者」「思考者」にとって)他者です。ジェンダー論的観点からすれば不適切な比喩かもしれませんが、産まれんとしているテクストを孕み、自分は死んでもよいからテクストだけはこの世に残したい、という、子宮に宿った子に対する応答責任を強く感じていました。
        • このときの応答責任が「差し迫った不都合」だったというわけです。つまり希死念慮は自己にしか向かっていかないため――あるいはそれが反転して他害行動にしかならないため――死を選ぶことは合理的である、「都合」にかなっているわけですが(他害は自己が死なない自殺でしかない)、「殺すなかれ」(レヴィナス)と語りかけ、介入してくる他者が登場すると、自殺は合理的でなくなるというわけです。
    • 通院・薬物療法により、鬱の症状はある程度おさえられました。修士論文は書きあがります。しかし修士論文が書きあがったからといって、自己実現が図れるわけではありません。書き上げるという目的合理性にとっての合理的選択は選択されましたが、書き上がってしまうと、合理性自体は元に戻ってしまいます。
      • いわば第三次鬱ピークといえます。とうぜん博士受験には失敗しました。
    • 修士修了からしばらくして、ベンゾジアゼピン(BZP)系の安定剤・抗不安剤を処方してもらいます。鬱よりも恐怖や不安や激怒の感情がキツイと感じられるようになってきたので、自分から希望しました。
      • もっと後になってレキソタンソラナックスというダブル・スタッフになります。この効き目は絶大なものがありました。ぼくはこれをCandy Flip*3とよんで、現在も愛好しています。
    • インチキ社会人をしばらく続けますが、ぼくにとっての最大の出会いはパキシルというSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤)との出会いでした。
      • それまで処方されていた抗鬱剤の効果が薄く、そのことは「病院に通ってもこれ以上症状が良くならないのなら、この苦しみは一生続くのだろう。だとしたらこのまま生活を続けることは合理的でないのではないか」と感じていました。
      • パキシルの効果をはっきりと感じられたことは、「鬱の飼いならし」感覚(ある種のコントロール感)をぼくに手に入れさせ、生きることを楽にしました。ときには「鬱になりたい」ときにパキシルを抜いてみる、というコントロールをしたりもします。
        • ただしBZP系は少しでも抜けると耐えられません。SSRIは精神に効く感覚がありますが、BZPは神経に効く感覚があります(心的システムに準拠した感覚にすぎません――脳生理学的には適切な記述ではないと思います)。よく「心が痛い」などといいますが、BZPが抜けると神経が(心ではなく)痛くなります。
    • 現在のステータスは、パキシルSSRI)、ソラナックスレキソタン(BZP)、エバミール(BZP系睡眠導入剤)というスタッフを使いこなし、「ひきこもり」からも対人恐怖や鬱からも、おおかた脱出できています。
    • 自己実現にはほど遠いですが、「脱出感覚」と「コントロール感覚」を手に入れているため、自己実現への動機づけは調達できています。
      • (問題は学問への動機づけが調達できないという点にあって、目下の悩みですが……これは余談です)


さて、長々と書いてきましたが、以上のことはぼくの心的システムに準拠した記述であり、つまり「社会的には」一般化できないことを意味します。いいかえれば、これを読んでいるあなたがひきこもり(や諸症状)に苦しんでいたとしても、パキシルレキソタンソラナックスが解決してくれるとはいえません(大塚英志氏はソラナックスが効いているようですが)。
あえて一般化すれば、さまざまな薬を渡り歩いて自分に合うものが見つかるまで試行錯誤することは、効果が期待できるひとつの方法だ――という教訓を引き出すことができるでしょう。確実なことはなにひとつありませんが、「試してみるべきリスト」の一項目にはなります。
また、固有名を根拠に普遍化もできません。あくまでもぼくという心的システムに準拠した記述であるため、すでに(システムによって/システムという在り方によって)一般化されています(ぼくという心的システムに対して/おいて一般化されているが、社会システム・他の心的システムに対して/おいて一般化はできない)。「この単独的な私の苦しみ」を普遍的な≪謎≫として特権化することはできません。(この段落は余計かもしれません。読み飛ばしてください)


ここまで書いてきて、疲れたのでひとまずエントリします。
次に社会システムに準拠した記述に移る予定ですが、ここでシステム・リファレンスの問題は棚上げされていることははじめに明記しておきます。たとえばここまで書いてきた「心的システムに準拠した記述」も、言語のような社会的メディアで書かれています。かかる記述をして「心的システムに準拠している」と述べうる権利があるのかどうか、その点に関しては触れません。
明確なのは、(この)テクストはあなたにとってもぼくにとっても外在的である――言説という審級に内在している――ということです。
このテクストを読んだという事実は、あなたにとって「(元)当事者の声」を聞いたという端的な事実以上でも以下でもなく、「当事者」を理解したことにはなりません。あなたが理解したのはあなたが理解したテクストの意味だけです――あなたはあなたが理解したことしか理解していません。

*1:これは常識ですが、このエントリはおそらくぼくが「ひきこもり」について述べる初めてのものになるので、前提の確認作業も含めて書きたいと思います。

*2:正確には「ぼく」という一人称を帰属されるところの心的システム全体

*3:もともとLSDとエクスタシーのダブル・スタッフのことを指す用語ですが