博多祇園山笠問題

hidex77772004-08-26

昨日(あれ、もう日付け変わって一昨日か)書いたことのリアクションとか。

で、冴えているのが「腐女子」氏と次のrnaさん。rnaさんはぼくのエントリ:

この「事件(出来事)」が「問題」化される前提は、

  1. セクシュアルなものとして主題化する「意図」を顕在化していたわけではない「祇園山笠」における参加者の身体が(←主語)、
  2. セクシュアルなまなざしのもとに主題化され、(←受動態1)
  3. なおかつ「そのまなざしが凝縮condensedしたコンテンツ」への誘導として利用されている(←受動態2)

という点だろう。

を引いて曰く:

1 ゆえの無防備さにこそエロスがあるわけで 2 は必然かと! つーか、「少女」「ふんどし」「野外露出」って、こんだけ要素揃えといて「えっちなのはいけないとおもいます!」なんて言われてもなー。祭の場の空気の中ではちっとも性的には見えないのかもしれないけど、写真とか(あるいはお客さんの視点とか)の形で文脈から切り離されるととたんにエロくなる。そこがいい。じゃなくて、そこが問題なのか。

ワロタ。そうか、「そこがいい」のかw。

ぼくの前回エントリで言いたかったのは、

セクシュアルなものとして主題化する「意図」を顕在化していたわけではない「祇園山笠」における参加者の身体が(←主語)、

という「問題化の前提」への疑いとして、

「顕在化していない」と観察しているのは誰(何)か?=参加者は自己の身体を性化していないと誰がいえるのか?

とツッコミを入れたのでした。つまり、「性的じゃないもの」を「性的にみる」のが問題だとか、「性化する」のが問題だとか(「女性を性的なものとして見るな!」的フェミナチ言説!*1)ではなくて、「祭りへの参加」自体がそもそも性的である・あるいはエロティックである可能性は消えないでしょう、ということです。

「伝統的に祭りはそうだった」ということはどうでもよくて、近代的であるところの伝統の現われをエロスとの関連性無しに見ること、語ることのほうが、それこそありそうもないのではないか。

だからrnaさんのような近代的な視線(エロじゃないものをコンテクストから切り離すとエロに見える!)はフェミナチ言説と前提を共有しているのだ。恐れおののけ世のフェミナチ共が(シュッ・シュッ)。rnaさんがフェミナチなのではないですよw。「近代的な前提の共有」自体はきわめてまっとうだと思います。「フェミナチ」という蔑称をここで用いるのは、自分の観点がフェミニズムに基づいていると勘違いしてる馬鹿に対してです。


でー、以上を受けてusing_pleasureさん曰く:

とりあえず、僕は一介の社会学徒として、こういう「エロ」を巡るコミュニケーションにおいて、「エロス」がその欲望の主体に帰属されるのではなく欲望の対象へと帰属されてしまうことに疑念があります。

これを仮に「エロスの対象内在説」と呼びたいんですが、このとき「エロス」は決して欲望の主体の問題とされることはなく、あくまで欲望の対象から欲望の主体に対して影響を及ぼすようなものだとして想定されている。そしてこのような操作の結果、本来の欲望の主体(今回の件にかんして言えば、「盗撮者」)は免罪され、騒動の原因は欲望の対象である「少女」へと還元されることになる。このようなロジックは、レイプを巡る責任帰属等においても見られるもので、問題大ありなんじゃないか、と思います。

前回のぼくのエントリのタイトル「セクシュアリテとエロス」は、主体化する装置(=セクシュアリテ)と区別されるものとして「エロス」を対置してみたのですが(「否定神学」!)、つまり<欲望所有者/欲望対象>を区別し、欲望を所有者に帰属する(人格帰属)ことを「問題視」したのですね。この点でusing_pleasureさんとぼくは対立している。
「暗い道を一人で歩いている女が悪い」という言説の例をusing_pleasureさんは挙げてますが、「暗い道を一人で歩いている女は性的だ」という場合はまったく問題がないと思う。そこから「【だから】レイプする」という行為連関が責任免除されるとしたら、それは単に「法的に」まずいでしょう。*2



 blogもいいけど、本当は例のMLで議論してほしいんですけどね。

まあ、ないでしょうねw。

*1:だって女性である/男性である時点でそれは性的な区別じゃ〜ん。

*2:これはフェミニズムによくあるハナシで、「仮に女性が全裸で歩いていたとしてもレイプが免責されてはならない」。