セクシュアリテとエロス

*via:http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20040824#1093300914

件のMLからのメールは自動的にフォルダに移動するようになっていて、論文締め切り間近ということもあってぜんぜんチェックしてなくて、using_pleasureさんのエントリではじめて知って、読んだのだけど、すごいね。こんなことが許されていいのでしょうか?!とかさ。自分の憎悪や実存や趣味判断やアイデンティティ・ポリティクスや(以下略)などを、どこで誰に向けて発言しようが書こうが勝手だと思うけれども、そういうことが勝手にできる自由に対して「こんなことが許されていいのでしょうか?!」などと平気で言える脳がわからない。思わず(´∀` )オマエモナーである。






この「事件(出来事)」が「問題」化される前提は、

  1. セクシュアルなものとして主題化する「意図」を顕在化していたわけではない「祇園山笠」における参加者の身体が(←主語)、
  2. セクシュアルなまなざしのもとに主題化され、(←受動態1)
  3. なおかつ「そのまなざしが凝縮condensedしたコンテンツ」への誘導として利用されている(←受動態2)

という点だろう。
ひとつひとつ分析的に展開すると、

  1. 「顕在化していない」と観察しているのは誰(何)か?=参加者は自己の身体を性化していないと誰がいえるのか?
  2. 仮にある参加者が「自分は性的な視線にまなざされることを意図して山笠に参加していないし、まなざされるのが嫌だ」と述べたとしたら、そこで「問題」になるのは肖像権の問題であって、まなざし=主題化そのものではない。そもそも特定のまなざし自体が「問題」視されることの方を問題視しなければならない。
  3. コンテンツは当該コンテンツに違法性があるのかどうかのみが問題になる。ここでも主題が問題にされてはならない。仮に児童の身体を性的にまなざしている*1ようなコンテンツが違法だとしたら、その違法性を法的に問えばよい。違法のリスクに賭けたい者はそうすればよい。

というようなことを書いているとほんとうに腹が立つ。というか腹が立ったから書いているのだが。ぼくが胃の府から憎悪しているものを象徴する「事件」だ。

ぼくがルーマンを読むのはちんぽが立つからだし、ギデンズを読まないのはちんぽが萎えるからだし、ブルデューはどこで立てばいいのかわからない(感体でない部位を愛撫されているようで、「え?なにをしようとしてるの?」と思ってしまう。)

ぼくの性に対する考えは修士論文で書いたので、繰り返すことはしない(年に一度ぐらい読ませろ請求が来るけれども、図書館にあるので勝手に読んでください。修論と現在の考え方は180度違っているので〔システムと世界の関係の記述の仕方が反転したので、その修正のために博士課程に進学したのですが〕、いずれ書き直したものをパブリッシュします)けれど、ぼくは修士論文を、読者が勃起し/濡れ、オナニーできる読み物になることを目指して書いた(成功しなかったけれど)。ただしそれは学的な主題化を拒むものとしては書かれていないし、今後もそうするつもりはないし、それはそもそも不可能なのだ。「学的なものとしてみなすこと」へと誘導するには一定の「手続き」が踏まれなければならない――それはぼくが苦手とするところのものではあるのだけれど――が、逆にいうと「手続き」の後の倒錯として「みなし」が到来するのだ、ということは述べておきたい。







ちなみに関連記事では、下に引用したusing_pleasureさんの(注に落とされた)発言に全面的に賛成だ。

このようなテンプレを見かけるたびに、この文体はとても真似できないなー、などと思う。これは一種の芸であり、文化左翼ならぬ左翼文化だ。「こんなことが許されていいのでしょうか?!」(べつにだれかが主体的に「許し」ているわけではないだろう)とか「ともに立ち上がり、行動を起こしましょう!」(たいていの場合、立ち上がったあとの後始末がお粗末なんだよな)とか。

僕が目指すのは、男の身体の徹底的な性的対象化≒オネエ化であり、男の身体そのものの性化なのです。というか、性的欲望が個々人によって異なる、ということが前提とされるようになると、必然的に男もまた他者の欲望について一枚岩的な考えを持つことはできなくなるし、自分を「欲望される対象」として加工していかなくちゃならなくなる。このことは、男性の身体の性化を避けられないものにするのだと思う。

*1:だれが判断するのかわからないけれど