祭りはまだか。

# k 『双方の主張を読みましたが、林氏の主張のほうが論理的であると感じました。大人気ないなんて言い方がこういう場合でもありえるんですね。。建設的に議論をしたいならまずありえない物言いだと思いますが。。』

だからid:hidex7777:20040813#p6を読めばいいんじゃないかな?

【追記】

もちろん「応えろ、北田!」「祭!」みたいな(それこそプロレス的な)雰囲気にのまれて応答する必要は一切ないと思いますし、そのような流れで「大人気ない」応答はしない方がいいと思います。そうであれば、むしろ今まで通りの誠実な考察を続けて行かれた方が意義あるものだと思います(折角の夏休みだし、と言ってみるテスト→北田先生)。

そだすね。祭り期待ヽ(`Д´)ノボッキアゲに反省…。
石黒ひでさんがこう言っているよ:

パリ郊外で、10年前に私が目撃したメルロ=ポンティとライルの対話は、両者の関心のみか考えや結論が意外に似ているにもかかわらず、まるで喰い違って、ハロルド・ピンターの芝居の様な、珍妙なおかしさはあったけれども、全く非生産的なものだった。その時、討論方法に共通点を持つことが如何に重要か、考えさせられたものである。

北田さんと林道義では「考え」も「結論」も似ちゃいないけどねw



【さらに追記】

# shinimai 『どうもこんにちわ。上の林氏の文章の引用ですが、単に「言ってるじゃん。」っていってもどうも伝わらないような気がします。僕も基本的には北田氏を擁護する立場ですが、これだけではちょっと贔屓に見られてもおかしくない気もします。』

# hidex7777 『どもども。なるほど。書いたときは「誰でもわかる暗黙の背景」を前提に――つまり林氏がいかにバカかということをみんな知っていて、秀才北田が苦笑、という構図を前提に――したので、こんなエントリになったのですが、これを機会に「建設的な討議」になだれ込む、という流れになってきたようなので、あとで修正します。▲ご指摘ありがとうございました。』

# shinimai 『そうですね、なんにも背景知らない人からするとまずい表現だと思いました。というか一般の人からするとどちらも秀才であることには間違いないのであるし、言説のわかりやすさの面からいうと林氏が有利であるため、このような表現は本気でジェンダーフリーを擁護する立場なら良い方法とは思いませんでした。』

とは言ってはみたものの。

ぼくは林道義の言説よりも、次のような言説に対して「違和感」を感じるわけでして:

その態度表明
【略】
即ち「プロレス」をせず、学問に対して誠実な態度を取るという表明がすばらしいと思いました。
【略】
ジェンダーフリーを掲げる方も、フェミニストの方も、既得権にしがみついたり自尊心のみを振りかざすことなく「事柄を明らかにする」ための対話の実践が出来ないものでしょうか。

  • 違和感(1)
    • 「対話の実践」と「学問に対して誠実な態度を取る」ことの並置・の条件について。
      • 「事柄を明らかにする」ことが可能であるような条件――いいかえれば何がどうなったら「事柄」が「明らかに」なったことになるのか――が明らかでない。たんに「お互いが何を言っているのか」にかんしては、誰もがすでにアクセス可能な状態にあり、ゆえにすでに明らかになっている。このことに付け加えて何かが必要であるのならば、そして何が必要なのかはいまだわかっていないのだとするならば、それは「学的誠実さ」といかなる関係にあるのかすら、いまだわからないではないか。

(4)以上のお勉強の成果を少しずつ、ポジティブな形―誰かを論破するとか、非生産的な動機からではなく―で提示する。お祭り要望は丁重にお断りします(笑)。プロはいっぱい居るので、素人の僕にできることをよくよく見極める。

  • 違和感(2)
    • まず前提としては、
      • 林道義的噴きあがり言説」は、機能的に必要である。
      • この対応物として「反バカウヨ的噴きあがり言説」も、機能的に必要である。
    • この前提は、「なぜジェンダーフリー政策が必要か」「ジェンダーフリー政策はよき(あるいはいかなる)社会を帰結するか」「ジェンダーフリー政策は悪しき帰結をもたらすのかもたらさないのか」という≪学的コミュニケーション≫には属していない、と主張することも可能である。
    • しかし、≪学的コミュニケーション≫【として】なされた言説が、噴きあがり機能を果たさないといういかなる根拠もない。それは「動機」によって決定されない(動機はたかだか人格に帰属されるにすぎない)。これは、「学的言説の背後(深層)には必ず深層心理的イデオロギーがあるはずだ」という主張ではない。たんにあらゆるコミュニケーションの遂行性についての一般的性質についてぼくは述べている。*1
    • ゆえに、「ポジティブな形成体の提示」という北田さんの「発言」(および韓国から帰った後に提示される発話行為)が、「祭り不参加」を免除したりはしない。(祭りには参加していないという人格帰属は行なわれる)
    • では北田さんは「祭りに参加しますよ」「これは祭りですよ」と言えばよかったのか?――違う。遂行的帰結について事後的に責任を取らされることは現実にあるけれども、遂行的帰結の予測は不可能(とはいえ、ここで予測可能なコンテクストはほとんど明らかではあるけれども)。
    • 北田さんがどう言えばよいか/悪いか、ということではなく、この「違和感(2)」は、(1)と次の(3)をつなぐものである。

これを機会に「建設的な討議」になだれ込む、という流れになってきたようなので

  • 違和感(3)
    • これはぼくの発言であるけれども、「ばかいうな」とわれながら思う。
      • ここで自分のエピソードをひとつ。
      • ぼくは、日本列島にある福島県という(たぶん多くの人がどこにあるのか知らないと思うけれども)、県自体が「寂れた漁村」のような地域出身なのだが、実家に帰ると(小企業を経営する)父親に「倫理法人会」の会合に連れて行かれることがよくある。朝の5時ぐらいにはじまるのだけど。
      • たぶん特定の宗教団体とは関わりはない(か薄いかのどちらか)と思うけれど、「経典を大声でよむ」という会合である。
      • この会合の「締め」のあいさつの定番語彙が、「戦後民主教育の悪しき帰結」「家族の崩壊」である。つまり「つくる会語彙」。
      • 「倫理法人会」(たぶん郡山支部)のイベントで、「家族の大切さを知る」ために、山形にある教会に有名な牧師さんの講演を聴きに行く(そしてついでに山形牛を食べる)という企画があった。ぼくの家族は全員それに参加した。
      • 帰りのバスの車中、法人会メンバーはマイクで感想を述べ合うのだけれど、みんな「わたしは家族を誘ってみたけれども、ダメでした」みたいな愚痴合戦になる。「今日の牧師さんの話は身に沁みました」とか「いやあれは理想論だ」とか。当然、家族全員参加の我が家は「変な人たちだなあ」という目で見られる。
        • さて、ここで述べたことは、「つくる会語彙」に侵されるのは(家族不和のような)特定の社会的配置に置かれたことが要因だ、というような似非相関分析や似非背景分析ではない。「家族の絆」にほとんど問題がないようなhidex一家の家長であらせられる我が父親の語彙も、ほとんど「つくる会発」である(もちろん「つくる会」の文脈の存在など知る由もない)。地方の「法人会」の講演会にやってくるような上智大学教授の語彙を口真似しているだけである。
          • 【結論】:意味的なコンテクストにとって、「だれがなにを言っていて、なにが明らかになっているのか、なにが事実なのか」は、ほとんど関係がない。どのような語彙の連関に反復して接し、どのような語彙が沈殿するか、重要なのはこれである。
          • よって、ぼくは、林道義言説という特異な出来事に対して、「祭り」以外の態度で接することはない。
          • とうぜんこれはジェンダーフリー政策の推進に対するいかなる関連性も持つものではない。ぼくがここでジェンダーフリー政策の正しさ/反ジェンダーフリー言説のおかしさについてなにか述べたとして――あるいはぼくが述べたことが、学的権威のある冊子でパブリッシュされることになったとして――それがぼくやぼくに関係のある人々や、あるいは社会にとって、「よい」帰結をもたらすとはとても思えない。

*1:ジジェク的にはこれこそがイデオロギーの一般的性質であるけれども。