不安論の系譜

サルトルの場合、不安は簡単に、自由に向き合うこと、と定義できますよね。パルマによれば、(←失礼、澤田直によれば、です)

恐怖は状況から生じるが、不安は自己の前において生じるのだ。つまり、自分自身の自由を実存的に了解することが、不安である。

これは、サルトル実存主義的にしかものを考えていないからここまで要約できてしまうのだ。

問題はハイデガーで、『存在と時間』はたしかに「存在なき存在論」(すなわち実存哲学)に終わってしまった未完成品・不良品であるから、ハイデガーの意図とは無関係に、実存主義的に読まれてしまってもしかたがない、というところはあるのだ。
混乱させられるのは、次のような相反する記述がハイデガー研究者の著作に見られるときである。
門脇俊介「感情と認知--ハイデガー的アプローチ」:

≪気分は、「外部」からくるのでもなければ「内部」からくるのでもなく、世界内存在する仕方として、世界内存在それ自体から生じてくる。……気分は、そのつどすでに、世界内存在を全体として開示してしまっているのであって、何々へと自分を方向づけること(Sichrichen auf...)を、まずもって可能にしている。≫

恐れの気分にあるとき、人は被投された非力な自己のゆえに恐れ、このことによって動かされ続けている(開示されている)のだが、この被投された非力さにではなく脅かしてくる対象に集中する。≪情状性は現存在を、その被投性において開示するが、差し当たりたいていは、回避しつつ背を向けるという仕方で開示する≫

不安においては、気分の対象が被投的自己(気分の理由)と一致し、それゆえそのような回避が起こらない。このことは、不安が、世界内存在を哲学的にあらわにするのに特権的な意味を持っていることを意味する。
≪括弧内はハイデガーからの引用≫

周知のように、現存在の開示性、Daとは、了解と情態性(心境)Befindlichkeitのふたつの契機によって構成される。驚きや不快感のようなものは情態性としての「気分Stimmung」に属するが、気分が与えられることによって、現存在に、その被投性(世界内に投げ入れられていること)を開示する。しかしその被投性は≪回避しつつ背を向けるという仕方で開示≫される、という。
門脇は、特権的な気分としての「不安」は、この「回避」がおこらない気分であるとしているのだ。

これに対し、
マイケル・ゲルヴェン『ハイデッガー存在と時間』註解』

不安は、自己に直面することと解釈されると同時に、自己からそむき去ることとも解釈されている。しかし我々が知りたいのは自己の意味についてなのである。なぜ我々がまさに見出したいと思っている当のものからそむくような現象を調べるのだろうか?それに対するハイデッガーの答えは、我々がそむくこと自身が、我々がそこからそむき去る当のものを明らかにするのだ、ということである。

あれれ、門脇とゲルヴェンは反対のこと言ってますね。どちらが正しいのでしょうか?
今日中に確認できるでしょうか?