これはぼくがまだ病院通いをしていない時期に書いた日記

ぼくは毎週、臨床心理のゼミに出席しているのだけど、あいかわらずぼくの「セラピー嫌い」は治らない。

このゼミでは、毎回セラピストが実際に手がけたケースをもちよって、それをもとに討論している。昨日は某大企業に設置された「健康管理センタ」でケースワーカーとして働いている方の事例発表だった。

話しを聞くと、本人だけでなく、上司や家族からの相談も多いらしい。ぼくの印象を、結論からいえば、こんなのは高学歴の高収入所得者が、産業社会・資本主義社会の部品として壊れたときに、都合良く修理するシステムとして組み込まれているものにすぎない。「治す」方も治す方で、ゼミで発言する人の七割方は、いかにも「私はデキます」みたいな、はなもちならないはきはきとした明晰な話し方をする連中だ。出身階層(おさと)が知れるというものだ。

ようするに、セラピー・システムは、資本主義社会で「使える奴」とみなされたメンバーが、「使える」メンバーによって支えられて回収されていく「癒し合いっこ」のシステムなのだ。今回の発表の事例がたまたま大企業に設置された機関での話しだったからではない。いつだって、精神科や臨床心理を利用する人は、高い階層出身で、高学歴で、高収入だ。低い階層や地方出身者は、自分がセラピーを必要としているということにすら、気付かせてもらえないのだ。「部品」としてそもそも使えない奴は、壊れてもほったらかしというわけだ。

会社員は、ナントカ法によって、「自害/他害の疑いがあるとき」は、強制的に臨床を受けさせることが可能だそうだ。壊れたら強制的に治せというわけだ。逆にいえば、産業社会に参加していない奴は壊れてもほうっておけというわけだ。

ぼくの知り合いのある男の子は、学生時代に殺人未遂のあと自殺未遂を繰り返している。だけど、誰も支えてくれなかったし、誰も気にかけてくれなかった。彼はきれいに壊れてしまった。たんに気が弱くておとなしいから友達がいなくて、だけど繊細で優しい青年だったのに。ぼくだけは彼を見捨てなかったなんて奇麗ごとをいうつもりはない。ぼくだって面倒なことに関わりたくはないから、放っておいた。

ぼくの田舎に、アル中で酒乱のおじさんがいる。彼が「治る」ことはもう絶望的だろう。彼の両親はもう80才近く、人生の最後を苦しみの中で向かえることになるだろう。彼らは地方のド田舎の、階層的に周縁化された構造の中に埋め込まれながら、脱出不可能なまま生涯を終えるのだ。

与えられた状況を言語化する能力もまた、状況によって与えられる。プロザックをインターネットで輸入する方法を知っている奴もいれば、自分がプロザックを必要としているということすら知ることができない奴もいる。

ぼくたちに本当に必要なのは、地獄を天国に変える知恵でもなく、日常を(まったりと?)生きる知恵でもなく、地獄を地獄として生きる知恵ではないか。憎しみを解消することでもなく、憎しみを「これでいいのだ」と肯定することでもなく、憎しみを憎しみ続けたままキープすること。